物部村    【廃校小学校】安丸    河口  中津尾(分)    神池  五王堂  明改  別役  久保  別府  岡ノ内  桑ノ川(分)  上岡(分)
          【廃校中学校】岡ノ内  別府  別役  中津尾(分)  上韮生  神池(分)
          【休校小中学校】なし
          【廃校県立高校j】大栃  小14中6高1計21校
           【現存小学校】大栃
          【現存中学校】大栃 小1中1合計2校

学校統廃合の流れ
1961(昭和36)年 上韮生中学校神池分校を大栃中学校に統合
1962(昭和37)年 河口小学校上岡分校を本校に統合
1964(昭和39)年 安丸小学校を大栃小学校に統合
1965(昭和40)年 河口小学校・拓小学校を大栃小学校に統合
1968(昭和43)年 岡ノ内小学校桑ノ川分校を本校に統合
1969(昭和44)年 明改小学校中津尾分校を大栃小学校に統合
            大栃中学校中津尾分校を本校に統合
1970(昭和45)年 笹小学校を大栃小学校に統合
1971(昭和46)年 神池小学校を大栃小学校に統合
1972(昭和47)年 五王堂小学校を大栃小学校に統合
            上韮生中学校を大栃中学校に統合
1973(昭和48)年 明改小学校を大栃小学校に統合
1978(昭和53)年 別役小学校を岡ノ内小学校に統合
            別役中学校を岡ノ内中学校に統合
1980(昭和55)年 久保小学校を大栃小学校に統合
1985(昭和60)年 別府中学校を岡ノ内中学校に統合
1990(平成 2)年  岡ノ内中学校を大栃中学校に統合
1992(平成 4)年  岡ノ内小学校を大栃小学校に統合
1996(平成 8)年  別府小学校を大栃小学校に統合
2010(平成22)年 県立大栃高校廃校

参考文献 物部村合併40周年記念写真集「木の子守歌が聞こえる」
Thanks 物部村教育委員会

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 物部村は1956(昭和31)年に槇山村と上韮生村が合併して誕生した。その前の1954(昭和29)年には西川村が4つに分かれて舞川地区の北部が槇山村に編入している。合併から4年後に最大となった人口は11,152人足らず、2004(平成16)年時点で3,392人までに激減した。少ない人口も中心部にあたる大栃と山崎の2集落にその40%が集中しており、この2集落から村外へ移転する一方で村内の僻地集落からの転入も多い。過疎化に伴い児童生徒数はそれを上回るペースで激減し、ピーク時の1960(昭和35)年の2,065人から150人足らずにまで減った。このため高知県の1/25を占める261平方キロの広大な面積に小学校・中学校各1校となってしまった。過疎化の進行は様々な影を落とし、物部村独特の風習であるいざなぎ流神楽(陰陽道の流れを汲む祈祷)も後継者がいなくなり大祭も行われなくなった。
 かつては林業・養蚕・炭焼き・楮三椏が産業として成り立っており、楮三椏は高知県内でも有数の産地であった。林業をしながら小さな棚田で家庭一年分の米を確保し、家周りの畑で日常用の野菜・雑穀を栽培、家から離れた山傾斜地で桑・楮・三椏を栽培して現金収入とする。冬季に雑木を炭に焼いて、その落ち葉や下草を田畑の肥やしとする。この農業と林業を一体化して成り立っていたのが山間部の就業サイクルである。しかし燃料革命による人工林化と外材完全開放による林業圧迫、そして洋紙中心への製紙工業変換が絡み合い一気に崩壊してしまったと言える。高知県の試算では2025(平成37)年には総人口が900人を割る計算となっている。現在いくつかの集落は既に維持機能が限界に近くなっているが、この後限界どころか消滅する集落が出てくるのではないかという予想もある。追い打ちをかけるように高知県の財政難に伴い、県立大栃高校の存続が検討されていた。存続条件として1学年40人学級の2クラス維持が挙げられていたが、1クラス20人前後の実情が続き山向こうの徳島県東祖谷村へ生徒募集に出かけるなど地元の努力も前途は厳しく、2010(平成22)年3月をもって廃校となった。

 平成の合併案は物部川流域の香北町・土佐山田町と市制移行を計画し法定協議会の設置後、名称は香美市、すべての協議を終了していた。分村合併で東西に分かれた旧西川村はこの合併案通りに進めば、また同じ自治体の枠組みに戻ると思われていたが、香北町・物部村の住民投票・アンケートでこれを否決、肝心の土佐山田町に至っては住民投票が低投票率のために不成立となり、合併案は白紙になった。
 このサイトの取材で感じたのは香美市移行へ名目は対等合併となりながら、様々な条件で実質的に土佐山田町が2町村を吸収合併する形になりすぎていた事である。住民投票無効になるほどの低投票率が示す土佐山田町住民の無関心さはそこにあるように思った。特に昭和の大合併後の急激な衰退を目の当たりにしている物部村東部と香北町物部川北岸部では根強い反対を感じられた。

以下太字は2004/8/2付 高知新聞より
「こうほく3町村合併協議会」をつくる香美郡土佐山田町、香北町、物部村で1日、合併の是非を問う住民投票やアンケートの集計が行われた。反対派が物部村57・83%、香北町55・40%となり、宗石教道・物部村長、野島民雄・香北町長とも「民意を受け止めざるを得ない」と、法定合併協議会からの離脱を示唆。協議が白紙となることが事実上決まった。土佐山田町の住民投票は投票率が41・15%にとどまったため、規定により成立せず開票作業は行われなかった。

 このまま終わるかに思っていたが急転直下危機的な財政状況を訴えた結果として、2005(平成17)年になって再度合併への機運が高まった。合併協議は終了していたので手続き自体は迅速に行われ、一年後の2006(平成18)年3月を目標に香美市として発足することが決まった。
 当初は住民意思が財政危機よりも地域衰退に向いている事を明確に示していたし、作者はこの地域(に限らずだが)で学校の取材をしていても昭和の大合併は失敗だったという意見を何度も聞いた。まだその記憶が消えぬうちに再度の合併を仕掛けても納得はいかぬだろう。しかし諦めにも似た財政的な締め付けへの懸念が紆余曲折の末の香美市誕生への引き金となったようである。
 県東部では他地域で合併案が難航し法定協議会設置まで至らないケースが相次いだ。唯一法定協議会を立ち上げ、全協議を終了していたこの地域の合併中止は高知県側にも大きな衝撃を与えたようである。それまで一定の距離を置いて静観していた橋本知事が一定介入やむなしの姿勢を打ち出したのも当然であろう。しかし、中身の伴わぬ改革で一方的に財政を締め上げる国の方針は不可解で、住民意思が財政危機よりも地域衰退防止に向いている事を明確に示している。