久保小学校(物部村)  くぼ   へき地級2(1978)
  旧上韮生村立久保小学校として設立、合併で物部村立に改称後、1980(S55)年に廃校
 

  1958(S33) 1959(S34) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53)
児童数 112  130  82  76  11 



 物部村の中心地である大栃から北側の谷筋が旧上韮生村になる。大栃から上韮生川沿いに遡り、五王堂小学校跡を左に見ながら西熊渓谷へと向かう。地図上では集落になっているものの集落とも言い難いいくつかの人家を過ぎると道の右下に久保小学校跡が見えてくる。



 訪問は2005(平成17)年3月、前日に五王堂小学校を訪問した後、久保小学校より上の西熊林道脇の広場でテント泊とした。季節はずれの寒波は一層厳しさを増し、朝になるとテントにも雪が積もっていた。
 校庭跡にはゲートボール場が作られていて、校舎も倉庫代わりになっていた。写真で車を置いてある場所はプール跡、数年前に登山のためここを通った時にはまだプールが残っていた。最大時の1959(昭和34)年には130名の児童がいた。閉校2年前の1978(昭和53)年の高知県教育委員会発行の教職員名簿を見ると、児童数11名となっている。校長以下4名の教員が配置されているが、うち3名の住所が学校所在地になっている。地元の方に聞くと東側に官舎があったそうだ。

閉校直後の久保小学校

 物部村や大豊町を中心とした高知県北東部から徳島県祖谷地方にかけては久保という地名が実に多い。上韮生川沿いに見ても野久保・久保堂ノ岡・久保影・和久保がある。窪地の窪がいつのまにか久保になったようである。わずかな平地は住居になっていたため、この地域では林業と炭焼きによる収入がほぼすべてであった。自給自足に近い生活ではよかったが、消費社会の時代にはとても一家の生計を引き受けるほどの収入にはならず、人々は山を離れざるを得なかった。2007(平成19)年1月現在、旧校区内に児童は2人いて遠く大栃小学校へ通学している。