明改小学校中津尾分校/大栃中学校中津尾分校(物部村) なかつお
旧槙山村立明改小学校分校および大栃中学校分校として設立、合併で物部村立に改称後、1969(S44)年に本校統合
1963(S38) | 1964(S39) | 1966(S41) | 1968(S43) | |
児童数 | 16 | 22 | 14 | 3 |
生徒数 | 7 | 6 | 7 | 3 |
中津尾分校のある中津尾集落は物部村でありながら長い間他の集落と直接通じる車道がなく、安芸市畑山へ出てからいったん安芸市中心部まで南下して大回りする片道2時間半のルートしかしかなかった。1992(H4)年にようやく林道畑山奥西川線が開通し、安芸市轟から香我美町(現香南市)舞川を経ての小回りルートができた。その後北部尾根筋にある堂平を経由しての山越えの林道宇筒舞線が開通して役場(当時)のある大栃へも1時間ほどで行けるようになった。もっとも日常の買い物は畑山か安芸市中心部ですませていたそうで、公的な手続きの際に一日仕事になったそうである。足の達者な住民は堂平から明改へ出る昔からの往還道を使っていたらしい。
現在の中津尾分校跡(教員宿舎のみ残っている)
1970年頃(廃校直後)の中津尾分校(奥に教員宿舎が見える)
訪問は2010(平成22)年4月、舞川から林道畑山奥西川線経由で向かう。開通直後に自転車で走った際はまだ2km少々ダートが残っていたが今では完全舗装されており、乗用車でも問題はない。畑山への分岐を過ぎるとすぐにダートとなるが荒れた路面ではなくここも乗用車で走行可能。左手に何軒かの民家が見えるがいずれも無人、やがて右手に集会所がありそこが中津尾分校跡地である。分校校舎そのものは既に取り壊されており、教員宿舎を改造した集会所脇にひっそりと記念碑が建っている。このあたりは中津尾地区の中でも下中津尾と呼ばれているがまったく人気はなく廃屋が林の中に見えるだけであった。校区は下中津尾と堂平の2集落、何故か上中津尾というのは元々存在しないのに下中津尾となっている。織豊期や長宗我部地検帳に「中ツヲノ村」の記載があり、少なくとも16世紀からの居住は間違いない。明治時代には大規模な新田開発も行われた記録が残っており、1952(S27)年には14世帯72人が暮らしていたと高知新聞の記事がある。この頃は水田や畑で自家消費用の農作物を作り、木材や木炭の生産で換金していた。木炭は石油エネルギーへの変換で一気に下火となったがかわりに国有林の皆伐が始まりつつあったので人口が増え、中津尾分校が開設された。分校開設の翌年1960(S35)年には営林署事業所が開設され123人と一気に人口が増え、賑わいもあったそうである。1966(S41)年に皆伐が終了すると一気に人口が減った。
学校の歴史としては小中学校ともに1959(S34)年8月に設立され、約10年後の1969(S44)年3月をもって本校統合となり短い歴史を終えている。手持ちの資料を参照すると元々は明改小学校(通学距離7km)と大栃中学校(通学距離14km)への通学だったが、遠距離と難路のため不就学児童生徒が多くその対策に苦慮していたそうである。前述のように車道がまったくないのでスクールバスも使えずお手上げ状態だったらしい。営林署事業所の設置が決まり急遽分校開設となったが、林業不況即事業所閉鎖となり短い歴史となったそうである。ピーク時の児童数は1964(S39)年の22名、生徒数は1966(S41)年の7名となっている。地区住民自体はピーク時に50名ほどいたようだが訪問時点では3世帯4名となっている(住民票があるものの確実に居住している数字だとは言い難いとの香美市物部支所の説明)が、当然児童生徒数はゼロである。
記念碑
2017(H29)年5月9日付けの高知新聞記事に完全な無人集落となり、消滅集落となった取材記事が掲載された。これによると2016(H28)年3月に最後の住民が自宅で亡くなり、それ以降は無人となっている。住民票の上ではもう一人住民がいるのだがこの方も体調を崩して3年前に入院しており帰宅は無理な様子である。