五王堂小学校(物部村)  ごおうどう
  旧上韮生村立から合併で物部村立に改称後、1972(S47)年に廃校

  1958(S33) 1959(S34) 1963(S38) 1968(S43)
児童数 99  126  65  33 

 
 物部村の中心地である大栃から北側の谷筋が旧上韮生村になる。大栃から10キロほど遡ると旧上韮生村の中心であった五王堂地区に着く。左手に寄宿舎のような学校跡があるのがすぐにわかる。向かいの山には水力発電の送水管があり、五王堂発電所がある。



 訪問は2005(平成17)年3月、季節はずれの寒波が到来し小雪が舞う中での訪問であった。物部村教育委員会で聞くと廃校後の払い下げで建設会社が宿舎として使っていたが外観はほとんど変わっていないはずと教えてくれた。
屋根がついているぐらいでたしかに校舎自体はほぼそのままである。五王堂小学校は1877(明治10)年に簡易小学校として創設されている。ピーク時の1959(昭和34)年には126名の児童がいたと記録にある。
 大栃からの道はこの五王堂で2つに分かれる。いずれも谷筋に沿って走る狭い道である。一つは東向きの上韮生川沿いに西熊渓谷・別府峡経由で国道195号線へ。一つは北の笹川沿いにアリラン峠経由で徳島県の東祖谷村へ。いずれも紅葉の季節には行楽客で賑わう高知県内屈指の紅葉の名所である。笹川沿いには笹温泉があり、素朴な山の温泉として人気がある。かつては上韮生川上流に久保小学校と笹川上流に笹小学校があり、少し下流には安丸小学校があった。旧上韮生村にあたる5校、即ち五王堂小学校に先の3校と上韮生中学校の5校を併せるとピーク時の1960年前後には550名ほどの児童生徒がいた。2007(平成19)年1月現在、旧五王堂小学校校区内に児童は4名いて大栃小学校へ通学している。
 このあたりは林野率が95%を超えており、平地はほとんどない。わずかな緩斜面ではゆず栽培が行われている。昭和の合併以降急速に過疎化が進んだが、実際はそれ以前から緩やかに過疎化は始まっていたそうである。天然林の伐採は昭和初期に一段落し、既に終戦直後には人工林が大幅に増加していた。大都市圏で戦争からの復興が進むにつれて、人々は一家を挙げて離村するようになった。経済的なゆとりはなかったものの豊富な山の恵みで精神的には豊かな暮らしをしていたが、貨幣価値万能の時代にはそれだけでは暮らしていけなかった。何人かの方に地区内の空き地や杉林はかつての人家でそうですねと聞くと「こことあそこ、あの向こうの杉林もそうだった」と教えていただいた。ざっと聞いただけで軽く20軒を超えてしまい、かつての盛況ぶりが偲ばれた。「正確にはわからんがおそらくこのへんは一番多かった頃の人数の1/5ぐらいじゃろう。もしかしたらもっと減っとるかも」と教えていただいた。