河口小学校上岡分校(物部村)  かみおか
  旧槙山村立から合併で物部村立に改称後、1961(S36)年に廃校、1962(S37)年に大栃小学校に統合
    

  1948(S23) 1956(S31) 1958(S33) 1963(S35)
児童数 10  10 

 上岡は物部川支流の則友川川之瀬谷の北側稜線にかつてあった集落である。いわゆる戦後開拓として国有地の払い下げが行われ、1948(S23)年から入植が始まって開拓地として成立した。川之瀬谷からは標高差約400mの場所にあり、入植直後から水不足に悩まされ続けた。おまけに酸性土壌のため耕作には不向きで、1961(S36)年には後述の開拓農協組合が解散して集団離村となった。戦後開拓の資料によると「樒尾山開拓農業組合 S23.8.20設立 組合員58名」とある。比較的傾斜の緩やかな稜線部の標高800〜850m(分校所在地は825m)に開墾され、すぐに分校が設置されている。高知県行政区画変換資料集によると「1951(S26)年槙山村仙頭の一部を上岡に編入」とあり、物部村の行政資料でも1952(S27)から上岡の大字名が出てくる。当然離村以降の地図では上岡という地名は見当たらないが、現在でも林業図面では樒尾山という地名が残っており、開拓農業組合は最後まで樒尾山のままであった。戦後開拓には小中学校設置に関する補助助成金があり、特に小学校は100%の国庫負担だったので設置が早かった。高知県内では上岡分校の他に中峯分校(室戸市)・藤内分校(安芸市)がその対象と確認している。


 廃校直前の上岡分校 1961(S36)年撮影

 現在の上岡分校

 訪問は2016(平成28)年1月、記録的な暖冬のため心配していた積雪は皆無で同行のHEYANEKO氏とともに汗をかきかき山道を登った。当時の地図で確認したところ、上岡へのルートは川之瀬谷から3つだが現在は下流の索道跡を登るルートが主流だそうだ。我々はあえて当時一番使われていた真ん中のルートを辿った。何度か徒渉を繰り返すので長靴を履いたが、当時は川之瀬谷に沿って森林軌道が敷設されており橋も架けられていた。九十九折りを繰り返して標高差を稼ぐ集落への道と言うよりは完全な登山道だが約二時間で分校跡に到着。
 わずか13年の短い歴史を山中に終えた分校と集落だが、校舎は健在であった。離村時に「今後居住はしない(戻ってこない)」という約束で離農離村補助金が出ており、7軒あった民家をすべて撤去している。分校校舎は撤去の際の宿泊施設に使われ、その後も作業小屋として改築されているものの、平屋建てのままで面影はしっかり残っている。校舎手前には電柱が転がっているが、これはおそらく廃校直前の写真にも写っている電柱だと思われる。

 電柱

 電柱があるとはいえ電気自体は自家発電装置で発電していたそうである。燃料や日常生活物資等は南西部にあった索道で川之瀬谷から引き揚げていたと記録に残っている。森林軌道での運搬が可能で、物資よりもとにかく水の確保に苦労したようで、渇水期には索道だけでは間に合わず、我々の登ったルートを水くみに通ったとある。離村後は一時期県立大栃高校の実習地に使われたあと、物部村和牛生産組合が借り受けて放牧地となった。しかし水不足が致命的なのと冬季積雪による牛の下山などで費用がかさみ組合は解散、1975(S50)年前後からは村有林として杉檜が植樹されて現在に至っている。森林組合に確認したところ、今でも手入れのために年に数回は訪れているとの事であった。

 大栃高校実習地時代 1965(S40)年頃か?


 学校跡記念碑

 校舎入り口には物部村教育委員会によって閉校記念碑が設置されているが、この重量物を運び上げた事に驚嘆する(設置された頃には索道は既に使用不可)。よく考えてみれば分校赴任の教員もここで生活させられる事になったわけで大変な苦労ではなかっただろうか。



 下山時に振り返って