安丸小学校(物部村)  やすまる
  旧上韮生村立から合併で物部村立に改称後、1964(S39)年に大栃小学校に統合

  1955(S30) 1958(S33) 1963(S38)
児童数 98  93  50 



 物部村の中心地である大栃から北側の谷筋が旧上韮生村になる。大栃から上韮生川に沿って県道を遡り安丸郵便局の先で左折、上韮生川を渡ってそのまま車道を進む。学校は川を渡ったすぐ左手の上にあるが、車道は一度右に大きく迂回する形になる。宮西という小さな部落で左折して土居番という部落の中程に左斜めに下るコンクリート道があり、その先が安丸小学校跡になる。既に民間個人に払い下げが行われ畑になっており学校を偲ばせるものは石垣ぐらいである。

安丸小学校跡(画面中央下の石垣)

 訪問は2007(平成19)年3月、旧物部村教育委員会でだいたいの場所を聞いていたものの自力では辿り着けずに宮西で教えを請う。学校の歴史は1877(明治10)年に安丸簡易小学校が開設された時より始まっている。五王堂簡易小学校の分教場を経て再び単独校となり、ピーク時の1955(昭和30)年には98名の児童数を数えていた。校区は大きく分けて安丸・黒代の2集落であり、当然その中にいくつかの小字部落があった。地理上の問題もあって中学校の進学先は分かれており、主に北部の児童は尾根越えで近い上韮生中学校神池分校へ、その他の児童は上韮生中学校か大栃中学校へ通うケースが多かったらしい。児童数の減少に加えて1961(S36)年に神池の中学校が大栃中学校に統合されてからは地区内でも統合気運が高まり後を追うように大栃小学校へ統合された。
 北部にあった牛坪や亀ヶ峠の部落は離村しており住民は皆無、その他の部落でも過疎化と高齢化が進んでいる。写真を見比べればわかるようにかつての耕作地は人工林となり、手入れもされぬまま放置状態である。この地域でも家周りの田畑で家族分の米と野菜・雑穀類を栽培し、傾斜地に分散する土地で桑・楮・三椏を作っていた。冬季はクヌギ・ナラを植えた土地から伐採して炭焼きを行い、落ち葉・下草は畑の堆肥としていた。現金収入は国有林で行う林業労務と桑を利用した養蚕、それと和紙の原料になる楮三椏の3本だてで家族がそれぞれ分担していた。この循環サイクルは産業構造の変化と林業不振で崩壊し、離村あるいは老人のみが残ることになる。
 いっぽう南部では中心地である大栃から比較的至近距離ということもあって安丸集落付近の過疎化は北部ほどではない。訪問時点で校区内から5名の児童が大栃小学校へ通学している。

1960年頃の安丸小学校