笹小学校(物部村)  ささ
  旧上韮生村立から合併で物部村立に改称後、1970(S45)年に大栃小学校に統合

  1958(S33) 1959(S34) 1963(S38) 1968(S43)
児童数 27  50  21  13 


 

 物部村の中心地である大栃から北側の谷筋が旧上韮生村になる。大栃から旧上韮生村の中心であった五王堂地区に向かい、地区手前で左折して北側の谷筋に分け入っていく。しばらく進むと笹温泉があり、その先に集会所があるがそこが笹小学校跡である。


在りし日の笹小学校

 訪問は2005(平成17)年12月、物部村教育委員会でだいたいの場所を聞いて向かう。学校の歴史は1884(明治17)年に笹簡易小学校が開設された時より始まっている。一時は五王堂簡易小学校の分教場となった時期もあったが、ピーク時の1959(昭和34)年には50名の児童数を数えていた。学校があるのは笹上集落になり、このほかにも笹下集落が校区にあたる。笹上・笹下集落ともに50歳より下の住民がおらず、その存続自体が限界集落に分類される。当然の事ながら校区内の児童生徒ともにゼロである。

笹番所跡(写真中央やや上)

 笹温泉は日帰り専門ではあるものの秘境ムード漂う温泉である。四国の登山愛好者にはよく知られており、19℃の源泉を加熱しながらも流し湯、杉の湯船に浸かる。週末だけの営業となっているが、この近くに行く機会があれば是非一度立ち寄ってみる価値がある。
 笹から車道は矢筈峠(別名アリラン峠)を越えて徳島県東祖谷村に向かうが、この矢筈峠は「よさこい節」の一節「おかしなことよなはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」で有名な「純心、お馬」の国抜けの道である。二人が笹番所を破り、手に手を取って矢筈峠を越え讃岐の琴平に向かったのは、今からちょうど150年前、1855(安政2)年5月20日の夜、時に純心37歳、お馬17歳のことだった。当時、五台山竹林寺(四国霊場第31番札所)脇寺妙高寺の住職として二百人余の修行僧を指導していた純心のもとには、「慶禅」という若い僧 がいた。慶禅は、その頃五台山小町と呼ばれていた美しいお馬にぞっこんとなり、はりまや橋で花カンザシを買い与えたのだが、カンザシの送り主は不明のまま噂だけが瞬く間に城下に広まってしまう。人々の好奇の目は竹林寺に向けられ「カンザシの送り主は慶禅か純心か」と、お馬の良き相談者だった純心までもが疑 われてしまう。
 当然のことながら慶禅は寺を去ることになるのだが、純心は噂の主が慶禅だということをいっさい明かさず、自らの監督不行届を苦に一旦寺を下りる。そのこと を知ったお馬は、心の師と仰ぐ純心が自分のせいで寺を下りたことを悔い、思慕の念はやがて恋する想いへと変わっていった。純心のことを思い詰めるお馬に、縁談が持ちあがる。そんな折しもお馬は、純心が竹林寺に帰って来たことを知らされる。
 お馬は純心に逢い、その胸に飛び込んだ。お馬の熱い思いを受け止めた純心は、自分に正直に生きる道を選び、二人で土佐の国を離れることにした。こうして道案内を頼んだ知人とともに、二人は小雨と夕闇の中、矢筈峠を越えて行ったのだった。
 その後矢筈峠は戦後車道工事に携わった韓国人労働者が故郷の風景に似ていることからアリラン峠と呼んだ。25年前に訪れた際は笹から東祖谷村小川までが未舗装、数年前までは明賀より先が未舗装の悪路だったが現在では高知県側は完全舗装となっている。峠には登山者用にトイレも設置されている。