別役小中学校(物部村) べっちゃく
旧槇山村立から合併で物部村立に改称後、1978(S53)年に岡ノ内小中学校に統合
1957(S32) | 1958(S33) | 1959(S34) | 1963(S38) | 1968(S43) | |
児童数 | 85 | 100 | 112 | 93 | 66 |
生徒数 | 82 | 48 | 49 | 48 | 41 |
物部村の中心地である大栃から国道195号線を徳島県境方面へ10分足らず走ると岡ノ内の集落に着く。現在は国道がバイパスで抜けているが旧道に入り、岡ノ内小中学校跡を見ながら進む。小松神社の看板を目印に延々と林道を駆け上がった先に別役中小学校跡がある。皮肉にも今走ってきた林道工事の土砂捨て場になっておりその面影は既に無い。
別役小中学校記念碑
訪問は2007(平成19)年2月、大栃からは車で20分少々である。学校の歴史は1895(明治28)に槇山川峡谷を挟んだ対岸の一宇(いちゆう)に開設された尋常小学校まで遡る。その後1914(大正3)年に現在地に移転したと記録に残っている。校区は別役と一宇の集落になり、山道を上り下りしての通学だった。ちなみに学校所在地の標高は543mになり、一宇のいくつかの小字部落(鴨ヶ峯や成山)は標高600mを越えている。通学はいったん槇山川の標高400m付近まで下って橋を渡り、別役土居の南稜線540m付近まで一気に登ってあとは緩やかに山腹を横切るというものであった。1968(昭和43)年4月には八畝付近で落石事故が発生し、入学してわずかの新入生1人が即死ほか1名が重傷という記録が残っている。
ピーク時の在籍記録を見ると別役小学校は1959(昭和34)年に112名、別役中学校は1957(昭和32)年に82名となっておりこの前後には150名を越える児童生徒が通学していたそうだ。その後統合された岡ノ内小中学校も既に廃校となっており現在の統合先は大栃小中学校である。
今も残る校長官舎
廃校から29年が経過しており、前述のように林道工事の土砂捨て場となっているため当時の痕跡は記念碑と校長官舎だけである。その記念碑はかつて校庭の松の木の横にあったと聞くが(下記写真参照)、今では藪の中である。当初自力で記念碑を探していたがさっぱり場所がわからず断念、近くで柚子の収穫作業をしていた方に案内して貰うという状態であった。土砂捨て場から滑り降りた先にあり、「そりゃあ初めて来た人にはわからんやろう」と言われた。記念碑の下の林の中によく踏まれた道が残っており、これが一宇及び別役上流からの通学路だと教えて貰った。林道は10年ほど前に開設され、それまでは乗用車も入れない交通事情が続いていた。学校の給食・教材物資や学校脇にあった民家の生活物資は国道から索道を使って標高差380mを一気に吊り上げて輸送していた(下記写真参照)。冬季は積雪と凍結があるため、高知県内の学校としては珍しく夏休みを短縮して冬休みを長くとっていた。
別役集落は小松神社を奉る事で有名である。小松神社は陰陽道と混同されているケースがあるが、秦氏末裔である小松氏の氏神様といったほうが正しいらしい(この方面は疎いのでここまでにしておく)。かつて1960(昭和35)年には52世帯256人の住民がいたが、2005(平成17)調査の数値では13世帯17人となっている。人口減少率は94%になり既に集落としての自治機能はほぼ崩壊しており、当然児童生徒は皆無である。過疎化の進む物部村内でもこの地域の衰退ぶりは典型的な挙家離村と集落崩壊の例になる。家周りの田畑で家族分の米と野菜・雑穀類を栽培し、傾斜地に分散する土地で桑・楮・三椏を作っていた。冬季はクヌギ・ナラを植えた土地から伐採して炭焼きを行い、落ち葉・下草は畑の堆肥としていた。現金収入は国有林で行う林業労務と桑を利用した養蚕、それと和紙の原料になる楮三椏の3本だてで家族がそれぞれ分担していた。まず化繊工業の発展で養蚕が駄目になり、高度経済成長期に現金収入を求めての青年層過疎が少しずつ始まった。続いて外材輸入自由化によって林業不振とそれによるパルプ輸入における洋紙への転換が続く。ここで苦しいながら県内での出稼ぎをしながら地元にとどまっていた青壮年層が離村を始める。追い打ちをかけるように小中学校の廃校が決まり、この前後には一家を挙げて離村するケースが続出している。この時期以降には年齢的にも経済的にも転職も離村も難しい老人世帯が取り残され、一気に高齢化が進んでいる。前述の1965(昭和35)年52世帯256人がわずか15年後の1980(昭和55)年には18世帯39人、人口減少率は85%という凄ましさである。その後も人口減少は続き、30人を割り込んだ1989(平成元)年には藩政時代より200年近く続いた集落の自治組織を解散した。この事は集落の自治機能崩壊となり、生活道の維持管理・冠婚葬祭の相互扶助・水源維持(水道敷設が不可能なため沢水を引いている)などに障害が出ている。もはや100%に近い人口減少率となり、集落の消滅自体が近いというのが現状である。小松神社の大祭である7月10日には離村した住民もかけつけて一時の賑わいも戻るというが、近年その準備すらままならなくなっており予断を許さない状態である。
1960年の別役小学校運動会
国道から索道で荷揚げ