越知町    【廃校小学校】堂岡(横畠東部)  鎌井田  榎佐古  小日浦(尾川第二){注6}  大平  桐見川  野老山  片岡  黒石  横畠小(横畠西部)

        【廃校中学校】桐見川  横畠(横畠西部)  堂岡(横畠東部)  小日浦  野老山  大平  明治中  明治鎌井田(分)
        【休校小中学校】なし   小10中8合計18校
         【現存小学校】越知
        【現存中学校】越知    小1中1合計2校

学校統廃合の流れ
1947(昭和22)年 明治中学校設立時に鎌井田分校設置
1949(昭和24)年 榎佐古小学校・鎌井田小学校を黒石小学校へ統合
           跡地に明治中学校本校移転、分校廃止
1955(昭和30)年 尾川第二小学校を小日浦小学校に改称
1967(昭和42)年 野老山中学校・堂岡中学校を越知中学校へ統合
1969(昭和44)年 中学校再編 横畠・小日浦・大平・桐見川の4中学校を越知中学校へ統合
             堂岡小学校を越知小学校へ統合
1974(昭和49)年 大平小学校を越知小学校へ統合
1978(昭和53)年 小日浦小学校を桐見川小学校へ統合
1998(平成10)年 桐見川小学校を越知小学校へ統合
2000(平成12)年 片岡小学校を越知小学校へ統合
2002(平成14)年 横畠小学校を越知小学校へ統合
2004(平成16)年 野老山小学校を越知小学校へ統合
2006(平成18)年 黒石小学校を越知小学校に統合
2007(平成19)年 明治中学校を越知中学校へ統合
2012(平成24)年 桐見川小・野老山小を廃校
2015(平成27)年 3月をもって黒石小・片岡小・明治中を廃校
2016(平成28)年 3月をもって横畠小を廃校

Thanks  越知町教育委員会 (有)四国ニット
参考文献 越知町町史(S58)

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 高岡郡越知町は1954(昭和29)年に旧越知町・横畠村・明治村・大桐村が合併、佐川町や仁淀村の一部を編入してできた町である。大桐村は支流の坂折川に沿っており、その他の町村は仁淀川沿いにあり、もともと江戸時代から松山往還が通じていたため、当時は明治村や横畠村が栄えていたようである。今は佐川町を経由して仁淀川沿いに国道33号線が松山に抜けているが、高速道路の開通とともに交通量は激減している。明治時代には西佐川駅(佐川町)から松山までの鉄道敷設計画もあったようだ。また、1980年代まではツバメマークの国鉄バスが桐見川まで運行されていた。
 1967(昭和42)年から1969(昭和44)年にかけて明治中学校以外の中学校をすべて越知中学校に統合した。作者は仕事で越知中学校に行くことがあるが、現在はスクールバスによって送迎がされている。統合当時は交通事情もあり、「若竹寮」という寄宿舎が設置されていたが交通事情の改善により、1980(昭和55)年に閉寮されている。2001(平成13)年に休校した片岡小学校の生徒は通常なら隣接区の黒石小学校へ転入すると思われたが、中心地の越知小学校へと通学している。
 地形的に旧越知町の一部を除くと稲作はほとんど不可能だったこともあり、養蚕や炭焼き・林業に比重が偏っていた。これらの産物が今はすべて生計を賄うには成り立たなくなったわけで、過疎化もやむを得ないだろう。もっともこの問題は越知町だけに限らず、日本全国の中山間部に共通している問題ではあるのだが。

 これは現在三期目を努める吉岡珍正越知町長から直接伺った話になる。一期目として就任したのがちょうど桐見川小学校の休校式の年であった。最後のたった一人きりの卒業生が答辞で「学校が泣いている」と言った事は今でも忘れられないそうだ。就任当時越知町の基本姿勢は「行政主導の上できるだけ早く小学校中学校各1校に統合」となっていたが、この一件で方針転換を決意する。「地元の意思を尊重し、行政はその判断に従う」事を実行に移す。結果的に過疎化・少子化の波にそれぐらいの事では抗えず、9年間で町内の学校は小中1校ずつとなってしまった。

★旧大桐村 【小学校】大平  桐見川  小日浦
         【中学校】小日浦  大平  桐見川
 1998(平成10)年に桐見川小学校が休校し、旧大桐村から小中学校はすべてなくなった。このことがこの地区のおかれた現状を物語っている。横倉山南にある山岳地帯がほとんどの村であったため、林業よりも農業・養蚕や炭焼きが主であった。もちろん水田は少なく、芋やきびが主であった。地区全体で合併後の1955(昭和30)年には800人あまりがいたようだが、現在は200人足らず。児童生徒数にいたっては150名弱から児童2名生徒ゼロという惨憺たる状況である。
 かつて解禁日には釣り人が押し寄せる良質の天然鮎の漁場として有名だった坂折(桐見)川も桐見ダムの完成とともに川としての命脈を断たれた。こうしてさらなる過疎化が進んだことも事実である。なお旧大桐村自体も元々は大平村と桐見川村との合併で誕生した村だということである。桐見川という地名は切見川から始まって霧が深く発生することから、霧深川と呼ばれていたらしい。16世紀後半の長曽我部氏による天正地検帳作成の時に桐見川と改めたという記録が残っている。
桐見ダムに沈んだ旧道

★旧明治村 【小学校】片岡  榎佐古  鎌井田  黒石
         【中学校】明治
 片岡小学校と黒石小学校が相次いで休校し、旧明治村も残るは1校(明治中)となっていたがこちらも閉校となった。旧明治村からは学校の火は消えることになる。この地区も平地がほとんどないので林業や炭焼きが主であった。県道の改良で鎌井田地区を通らないバイパスができ、このことが皮肉にも片岡小学校閉校後の生徒を黒石小学校ではなく中心部の越知小学校に通わせる原因の一つとなった。

宮ヶ奈路地区の事情

 旧明治村の東端に宮ヶ奈路という集落がある。国道194号線を走ればよくわかるのだが、伊野町出来地からは仁淀川をへだてた集落である。ここは地理的な条件から元々出来地や吾北村との結びつきが強く、通学にも大きな関わりがあったそうだ。本来ならば片岡小学校への通学が原則なのだが、なにしろ出来地小学校は目の前である。片岡小学校となると5キロほど離れてしまう。しかも未だに片岡方面(というか越知町)への直接の道路はなく、いったん仁淀川を出来地に渡り、少し下ってまた橋を渡るという状態である。そのため宮ヶ奈路地区に限っては越境通学が正式に認められており、小学生は出来地小学校へ通っていた。中学校になるとさらにややこしくなり、最も近い下八川中学校(吾北村)か三瀬中学校(伊野町)へ通学していた。三瀬中学校になると距離はあるが、やはり小学校からの友達と離れるのも嫌だという理由もあったのだろう。過去形で書いたのは現在宮ヶ奈路地区には児童生徒がいないこと、出来地小学校も三瀬中学校も下八川中学校も休校になったのと道路事情の改善もあり仮に児童生徒がいても越知小学校・越知中学校に通うからではないかという推測である。


★旧横畠村 【小学校】堂岡(横畠東部)  横畠(横畠西部)
         【中学校】堂岡(横畠東部)  横畠(横畠西部)  
 ここも2002(平成14)年に横畠小学校が休校となり、旧横畠村から完全に学校の灯が消えた。合併後の地理的条件があった堂岡小中はやむを得なかっただろうが、やはりこうなるとかつて松山往還の街道町として栄えた地区も寂れるのは間違いないだろう。山中にある地区だが越知町中心地から見るのと違い、現地では思ったほど起伏が激しくなくお茶や芋などの農業が今でも盛んである。それでも人口は激減している。

★旧越知町 【小学校】野老山 
         【中学校】野老山
 野老山地区も昭和の大合併以前にも明治時代に合併があり、当時は野老山村となっていたようである。そのためにこの野老山中学校の閉校時にはかなりもめたらしい。国道33号線からはうかがい知れないが、上に上がると思いの外集落があるのに驚く。