大平小学校/大平中学校(越知町) おおひら
旧大桐村立大平小中学校として設立、昭和の大合併後に越知町立大平小中学校に改称
越知町中心部を抜けたところで国道33号線を左折し県道を仁淀村方面に向かい、桐見ダム湖を見ながら走ると左手に石灰の採掘場が見えて佐之国への分岐になる。その少し先に郵便局と商店があるがここがかつての大桐村役場があったところである。その先から思いの外距離のある山道を駆け上がり、10分ほどで大平小中学校跡へ着く。平坦地の少ない大桐村は林業不振やと石油エネルギーへの転換、そして昭和の大合併による地域政策の減少、加えて桐見ダムの建設による集落移転などが重なり、越知町内でも群を抜く形で過疎化が進んだ。1881(明治14)年からの歴史を刻んだ大平中学校の閉校は1969(昭和44)年、大平小学校の休校は1974(昭和49)年である。
閉校後は中学生が越知中に併設された若竹寮(のち1980年に閉鎖)に寄宿、小学生は越知小学校にハイヤーで通学していた。このハイヤー通学は親にとっては精神的にかなり苦痛だったらしく(金銭的には全額町負担)、芳しい話を聞かない。
児童生徒数 | 1953(S28)/5 | 1963(S38)/5 | 1973(S48)/5 | |
大平小学校 | 92 | 58 | 15 | S49閉校 |
大平中学校 | 53 | 54 | S44閉校 |
校門跡から
訪問したのは2004(平成16)年3月、高知にしてはやや季節外れの雪の降る中であった。2月に桐見川および小日浦を訪れた時もひどい積雪だった。どうやら作者はこの地域では雪と対決せねばならぬようだ。校舎は既になく、集会所とプレハブが建てられている。その奥には講堂が残っていて、脇には錆び付いたジャングルジムがあった。
学校のあった大平部落の遙か上方には昭和初期まで木地ヶ奈路という集落があり、その名の通り木地師が定住していた記録が残っている。彼らは古代文徳天皇の第一皇子惟喬親王より出たと言われ、近江国の愛知郡には氏子帳が残っているらしい。木地師の定住については高知県下数ヶ所で記録があるが、仁淀川上流部ではこのほかに仁淀村黒瀧山と佐川山(佐川町内ではないかと思われているが詳細は不明)の記録がある。木地ヶ奈路は安徳天皇御陵参考地となっている横倉山と仁淀村を結ぶ三獄越えという往還の途中にあった。このルートは安徳天皇が壇ノ浦の戦い以後に、祖谷から池川・仁淀という逃走を経て最後に横倉山にたどり着くまでの伝説のルートともなっている。平家滅亡の際、壇ノ浦で入水したはずの安徳天皇の隠匿伝説は各地に残っており、越知町以外でも数ヶ所に及ぶ。どれが本当なのかもしくはすべて嘘なのかは今となっては定かではなく、いくつかの場所が御陵参考地として宮内庁の管理下におかれている。ここ横倉山もそうである。
桐見ダムの完成に伴い、島という集落が水没することになったそうだが、結局ほぼ全員が越知町の中心地や高知市などへ引っ越してしまい益々人が減ったそうである。現在の大平小中学校校区に住民は50人いるかどうかではないかと聞いた。あたりを見渡しても廃屋と茅に覆われた棚田ばかりが目に付く、そこには当然子供の姿はどこにもなかった。
講堂跡