小日浦小学校/小日浦中学校(越知町)  こびうら
  旧尾川村立尾川第二小中学校として設立、昭和の大合併後に越知町立小日浦小中学校に改称

 越知町中心部を抜けたところで国道33号線を左折し県道を仁淀村方面に向かい、途中桐見ダムを見ながら走ること20分ほどで桐見地区へ着く。小日浦へはここからさらに15分ほど山に分け入ることになる。正直こういうサイトを立ち上げなかったら行く用事もなかっただろうし、この集落の存在自体知らなかった。
 小日浦中学校の閉校は1969(昭和44)年、小日浦小学校の閉校は1978(昭和53)年である。元々は佐川町立尾川第二小学校として設立されていたが、1955(昭和30)年の合併時に小日浦地区が越知町に分離編入したため越知町立となっている。

児童生徒数 S28/5 S38/5 S48/5 S58/5
小日浦小学校 58 6 S53閉校
小日浦中学校 43 45 S44閉校

注:S28年の小日浦小学校の統計は不明

 訪問したのは2004(平成16)年1月、雪の降る中仁淀村から山越えをして行った。スタッドレスを履いていたため、それほど苦労はしなかったが、とにかく寒い。小日浦集落の終点に車を置き、ここから500mほど登った山の中だということで長靴に履き替える。誰も歩いた形跡は当然ないので雪を踏みしめ、杉林の中を登る。小日浦集落で聞いた話では、昔はどの家からも学校が見えていたそうだが現在は杉林に囲まれ下からは何も見えない。急坂を登ると木立がやや薄くなり、その中に崩れかけた廃屋が見えてきた、これが小日浦小中学校跡であった。かつてはこの校庭から小日浦の集落が一望できていたのだろう。今の寂れた風景や集落の雰囲気からはここにかつて100人近い児童生徒がいたこと自体が奇跡のように感じた。集落にいたお婆さんに話を聞くと、授業開始のベルや下校の放送が聞こえていたし。子供達の歓声も家々まで届いていたそうだ。今は音もなく、静まりかえった杉林の中に朽ち果てていくのみである。校庭跡にひっそりと記念碑が建っている、日付を見ると数年前のものであった。
 一年半後の2005(平成17)年8月に再訪問した。前回の訪問では悪天候のため写真が不明瞭だったことがずっと気にかかっていた。蚊取り線香を焚き防虫スプレーを塗って山道を歩くと崩壊はさらに進み、右1/4はほぼ潰れていた。写真を撮って引き返し、人の姿が見えた人家で話を伺う。1952(昭和27)年の卒業生だということで、当時は120人の生徒がいたと言う。佐之国からは山越えで1時間ほどかけて児童生徒が通学していた。戦前はマンガン鉱山があって神戸製鋼が採掘を行っていたそうで、鉱山口は集落のすぐ下にあったそうだ。この方の母屋ももとは鉱山関係者の社宅として作られたものだそうだ。戦時中には神戸製鋼は撤退し別の人が採掘をしていたが、神戸製鋼から来ていた何人かはそのままここに住み着いていたそうだ。その後鉱脈の枯渇により鉱山は閉鎖、炭焼きや林業で生計を立てていたが次々と山を下りて今では1/4いるかどうかと言う。
 もともと小日浦は尾川(佐川町)から長者(仁淀村=現仁淀川町)へ抜ける往還として、また佐川を統治していた深尾氏の狩り道として利用されていた。その経緯もあって当初尾川村に属していたが、昭和の合併時に佐之国とともに越知町に編入された。一番の理由は直接車道が通じていたのが越知町になるからである。合併から半世紀が過ぎ、その事実を知る町民は佐川越知ともに少なくなった。