横畠小学校/横畠中学校(越知町)  よこばたけ   へき地級2
  旧横畠村立横畠西部小中学校として設立、合併後に横畠小中学校に改称

 国道33号線を松山方面に向かい、越知町中心部を過ぎコスモスで有名な宮の前公園を右手に見ながら走るとやがて県道との分岐点になる。右折し、堂岡小中学校跡を見ながら数分走ると横畠への看板が見えてくる。ここからはぐんぐんと山を駆け上がる道となり、10分弱で横畠小中学校跡に出る。
 なお、閉校となったのは2003(平成15)年3月で現在は休校中である。

児童生徒数 1953(S28)/5 1963(S38)/5 1973(S48)/5 1983(S58)/5 2002(H14)/3
横畠小学校 167 119 33 34 3
横畠中学校 83 86 S44閉校

注:S28年は横畠西部小中学校

  

 横畠地区(旧横畠村)は旧松山往還の街道沿いにあり、当時は往来も多かったそうである。歴史的にも田中光顕や中島与一の脱藩ルートとして、また明治維新の際には土佐藩による松山征伐の行軍にも使われている。松山往還は横畠までは仁淀川沿いに来るか佐川町から赤土峠を越えて来るなどの方法があったが、堂岡で合流し横畠を経て難所鈴ヶ峠を目指すこととなる。現在発行されている道路地図によっては松山往還を国道33号線に定義してあるものも見受けられるが、あくまで国道制定後のことであり本来の松山往還とは鈴ヶ峠越えのルートをさすものである。
 過去の文献を見ると横畠村には宿場としての機能もあったそうだが、鈴ヶ峠が主役であった時代からは一世紀近い年月が経ち、もはや往事を偲ぶものは街道の痕跡しかない。現在のメインルートは眼下に見える国道33号線になり、さらに最近では高速道路にその主役が移った。昭和の大合併で越知町に編入されるまではこの学校付近に役場があったらしいが既に当時の面影はない。それ以前には茶屋や商店のほかに数軒の料理屋が学校付近にあり、繁盛していたそうだ。昭和の初期までは往事を偲ばせる建物が残っていたと古老に聞いた。旧松山往還そのものは現在も痕跡が比較的良好で、横畠小中学校の先にある薬師堂から歩くことができる。特に鈴ヶ峠からは池川町教育委員会の調査が行われ、看板も残っている。

 1953(昭和28)年には250名の児童生徒がいた横畠小中学校も過疎の波には抗しきれず、2003(平成15)年3月をもって休校となった。上の児童生徒数を見ればわかるが1963(昭和38)年から1973(昭和48)年までの減少数が激しい。地区ではお茶やサツマイモの栽培が盛んであるが、農作業自体は家族ぐるみでしている家が多いそうだ。しかし親は横畠に住んでも子や孫は越知町の中心部に住み、通いで作業をするケースがほとんどだとの事。
 休校から間もないこともあって校舎からはまだ子供の声が聞こえてきそうだ。横畠地区へのルートは従来今成からの町道のみであったが、近年になって野老山から上がる(実際に距離はこちらが近い)道路整備が完了した。完成前は少しは便利になって人も帰るだろうという話も聞いた。しかし、山間部で道路状況が改善された結果、人口が増えた例はまず耳にしない。むしろ過疎化に一層の拍車がかかった例がほとんどである。一部農家にお茶を直販するなど打開の方向を探る動きがある。