堂岡小学校/堂岡中学校(越知町)  どうのおか
  旧横畠村立横畠東部小中学校として設立、合併で堂岡小中学校に改称後昭和40年代に相次ぎ閉校

越知町横倉から仁淀川を渡り県道を伊野町出来地へと向かうと1kmもいかぬうちに左手の高台に廃校跡が見えてくる。それが堂岡小中学校跡であるが、現在は校舎跡を利用して縫製工場が営まれており廃墟ではない。この道は自転車でのトレーニングによく利用しているので春先には校庭の塀に沿って桜が咲いているのを見かける。堂岡小学校は1969(昭和44)年に、堂岡中学校は1967(昭和42)年にそれぞれ閉校となっている。主な校区は堂岡や小浜で児童の減少もあっただろうが、地理的に越知町中心部が近いので一つの自治体として考えた場合やむを得なかったようだ。実際現在の越知小学校と越知小中学校までは1km強しか離れておらず、旧横畠村だったとはいえ早期の統合はやむを得なかったのであろう。事実私もここが旧横畠村であると知らなかった頃は、どうしてこんな近くに学校が必要だったのかと思っていたものだ。

生徒数 S28/5 S38/5
堂岡小学校 135 109
堂岡中学校 62 62

現在の堂岡小中学校跡

 訪問は平成14年12月初旬、現在は民間企業が縫製工場として操業しているので写真撮影について許可をいただく。内部は特に改造をせずに1947(昭和22)年に建てられた校舎をそのまま使用しているとの事であった。校庭はテニスコート二面ぐらいの大きさで非常に狭く、この敷地に小中学校があり合計で200名近い生徒がいたことに驚く。写真手前の校門前には記念碑が残り「思い出の恩師よ、懐かしの友よ、今いづこ」という文が刻まれている。堂岡地区は江戸時代には松山往還の難所である黒森越え(鈴ヶ峠)の出発点であった。仁淀川沿いにのんびりと歩いて来た旅人はここからいよいよ四国山脈へと分け入っていくことになるのだ。そして鈴ヶ峠から池川町土居へと下り、用居番所あるいはそれを避けて水の峠から雑誌山へと別れるわけだ。
 堂岡集落で老人に話を伺った。少子化もあって子供は減ったが越知町中心部へ近いこともあり、過疎化はそれほど激しくないそうだ。実際この地区は思ったほど空き家が見つからない。
 今は県道も2車線となり一瞬のうちに通り過ぎるこの学校跡もかつては地区の中心としてにぎわったのだろう。校庭からは仁淀川の流れがよく見える、おそらく校舎の窓からも見えているだろう。学校としてはもうよみがえることはないが、まだ工場として人が入り生きながらえている、某かの活気は残っているそういった場所であった。

追記 2007/4/6 
最近になって県道を走る際に以前の縫製工場名ではない看板が出ているのに気がついた。現状確認したかったので再訪問したところ、縫製工場は閉鎖され「岩や」さんという造花・観葉植物・人工樹木・フラワーアレンジ・仏花・盆栽・門松などを作製販売している会社になっていた。紙と布で作った門松やミニチュア獅子舞が有名であり、高知県地場産業奨励賞も受賞している。通信販売も行っており、自社サイトも持っている。URL掲載の許可をいただいたので興味のある方はご覧下さい(地方交付税に頼らない越知町の自主税収増のためにも注文していただければ幸い)。
(株)岩や http://www.iwaya-hp.com/

校庭から仁淀川を望む