旧池川町【廃校小学校】大西  樫山  坂本  椿山  大野  瓜生野  用居(北部)  狩山  安居
      【廃校中学校】安居  用居  
      【休校小中学校】なし  小9中2合計11校
      【現存小学校】池川
      【現存中学校】池川  小1中1合計2校

学校統廃合の流れ
1965(昭和40)年 大西小学校を池川小学校へ統合
1966(昭和41)年 樫山小学校を安居小学校へ統合
1967(昭和42)年 坂本小学校を池川小学校へ統合
1972(昭和47)年 椿山小学校を用居小学校へ統合
1974(昭和49)年 大野・瓜生野・用居小学校を統合し、北部小学校に改称(施設は旧用居小学校を使用)
1980(昭和55)年 狩山小学校を池川小学校へ統合
1981(昭和56)年 安居中学校を池川中学校へ統合
1988(平成元)年 北部小学校を池川小学校へ統合
1992(平成 4)年 用居中学校を池川中学校へ統合
1997(平成 9)年 安居小学校を池川小学校へ統合

Thanks 池川町教育委員会 新池川町町史編纂委員会 小嶋一忠氏
参考文献 新池川町町史(H14発行) 日本鉱業(株)社史

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 池川町は現在高齢者比率が全国でも上位になっており(44.7%)、過疎化に歯止めがかからない状態となっている。この町は昭和の大合併では当初大崎村との合併が検討されたようだが、元々第二次大戦中の1941(昭和16)年に富岡村(現在のほぼ東半分にあたる)と合併した経緯があったため、特に積極的に話題にならなかったようだ(その後大崎村は名野川村と合併し吾川村に)。
 1948(昭和23)年には9,800人強の人口を擁し、林業の町として栄えていたという。料亭や芸者置屋もあり、映画館も2軒あるなど当時は近隣のみならず佐川町や越知町からもわざわざ池川町まで遊びに出かけたという話をよく聞く。しかし林業不振とともに人口の流出は止まらず、現在人口は2,400人程度まで落ち込んだ。往時はツバメマークの国鉄バスが吾川村大崎や佐川駅を始点に瓜生野や樫山といった最奥部まで走っていた。このバスは佐川駅では国鉄列車と連携され、大崎では高知〜松山間の急行バスと連携されており非常に便利であった。高知市を早朝に出て安居から雨ヶ森あるいは筒上山へ登り、日帰りをするのがバスだけで可能であった。バス以前には森林鉄道が走っており、安居〜大滝神社まで運行されていた。
 人口の急減と比例するように学童の減少も続き、昭和40年代から次々と統廃合を繰り返し、最盛期には13校(小10中3)あった学校は小中各1校ずつになってしまった。それ以前の記録として安居渓谷の上流にあった安居銅山にも終戦直前まで分教場が設置されていたようだ。同じく吾北村(現いの町)との町村境に近い広沢部落にも分教場があったようだ。両部落ともに現在は消滅しているために往事の様子はほとんどわからない。この他にもいくつかの集落の中には世帯数が数世帯、しかも老人ばかりとなった集落もあり、集落としての機能維持はもはや限界だと思われる(大野晃長野大学教授が高知大学教授時代に限界集落という言葉を思いついたのは池川町)。池川町には伝統芸能として池川神楽と安居神楽が残っているが、後世にその貴重な財産を伝承技能として後継者に残せるかどうかこの数年が勝負ではないだろうか。

 池川町で最初に統合されたのが大西小学校だが、急激な過疎化による学校統合が話題になり、池川町教育委員会が最初に統合を計画したのは安居にあった樫山小学校だった。老巧化した安居小学校の改築と併せて、昭和30年代後半から既に児童数20人を割っていた樫山小学校統合が一番最初の統合検討案であった。ところが大西小学校父兄及び校区民から池川小学校への統合申し出があり、1965(昭和40)年に池川町最初の統合が行われた。
 この時、池川町教育委員会の案では町内3中学校10小学校を最終的に1中学校3小学校にするはずであった。ここには政治的な思惑もあって統廃合が進んだ部分がある。ところが学校統合は思いの外過疎化を進めた形となり、1997(平成9)年の安居小学校閉校をもって1中学校1小学校という最小構成となった。これは高知県下では物部村と並ぶ激減である。

平成の合併では広域行政で体制の整っていた高吾北4ヶ町村(佐川町・越知町・仁淀村・吾川村)との合併が決まりかけていたが庁舎問題等で紛糾し、破綻した。その後あらためて仁淀村・吾川村と合併協議を行い、2005(平成17)年8月に仁淀川町として合併した。