北部小学校/用居小学校(池川町)  ほくぶ/もちい   へき地級2(1978)
  池川町立用居小学校として設立後、1974(昭和49)年北部小学校に改称されたが1989(平成1)年に池川小学校へ統合

 池川町中心部土居から国道494号線を愛媛県境へと向かい、20分ほど走ると用居集落に着く。用居小学校は池川町北部の4小学校統合に際して北部小学校と改称されている。終戦直後から高度成長期へと日本経済が向かうにつれ、人口流出と過疎進行が大きな流れとなった1963(昭和38)年に池川町が策定した「池川町綜合開発計画及び過疎振興計画」の教育方針案で「一中三小」が提示された。このうち、用居を含んだ北部地区は大野/椿山/用居/瓜生野の4小学校を統合するというものであった。当時の用居小学校は築40年近く経っており、危険校舎に指定されていたこともあって、用居小学校の改築という現実問題もあった。
 
児童数

1910(大1) 1925(昭1) 1945(昭20) 1955(昭30) 1965(昭40) 1975(昭50) 1985(昭60) 1989(平1)閉校時
不明 不明 189 97 64 61 13 4

北部小学校跡
 用居小学校が設立されたのは1875(明治8)年、以来110年余の歴史を刻んで1989(平成1)年に池川小学校へ統合された。明治時代には上流の檜谷に分校があったという記録も残っている。用居は松山街道の要所として栄え、江戸時代には番所が設けられていた。藩政末期には土佐藩執政吉田東洋(注)が藩主山内容堂に参勤交代にこの松山街道を使うよう進言している。当時参勤交代に使われていた北山越えが険阻なことと、手狭なことなどで莫大な費用がいることを考えたうえで、距離的には遠回りとなる松山街道を勧めたものである。結果的には実現しなかったものの、このルートがいかに利用されていたかの証拠である。
 統合時には地元住民との間で18項目に及ぶ統一要望事項があり、主なものは1:単式学級維持の確約 2:通学路危険箇所の整備 3:統合後の校舎活用方法 4:幼児教育(幼稚園)の推進 などであった。このうち単式学級維持については同時に再統合を絶対にせず、用居地区に小学校を残すという当時の池川町長の言動もあった。しかしながら想像以上の過疎が進行したため、単式学級どころか学校の維持すらできなくなり、池川小学校への再統合を余儀なくされた。2010年4月現在、校区内には3人の児童生徒がいてスクールバスにて通学している。もっとも3人とも用居地区なので、ここから奥には全く児童生徒はいない。

北部小学校校歌
1 四方の山々四季に映え
  渓流清き池北の
  用居の里の学舎は
  明るい瞳睦びあう
  楽しい北部小学校
  ああ我等の北部小学校
2 山の精気を身にうけて
  元気に学ぶともがらの
  心もはずむ歌声は
  緑の峰の青空へ
  平和な北部小学校
  ああ我等の北部小学校
3 明日を夢見る若草の
  伸びゆく生命育みて
  理想の道を啓きゆく
  知性の泉絶ゆるなく
  栄えよ北部小学校
  ああ我等の北部小学校

注:吉田東洋 幕末に執政として山内容堂に登用され、公武合体運動を推進した。安政の大獄で山内容堂が一橋派の一員として処罰された(謹慎)あとは藩政の実権を事実上掌握する事となる。尊皇攘夷を推進する武市半平太(瑞山)率いる土佐勤王党とは対立し、一度は武市自ら東洋への説得を試みることとなった。しかし上級武士である東洋が下級武士を中心とする土佐勤王党の話に耳を傾けるわけはなく、山内容堂の意向も公武合体にあったことから対話は決裂した。その後1862(文久2)年、武市の命令を受けた那須信吾らの勤王党員によって暗殺された。その首は鏡川にある雁切橋(現紅葉橋)に晒された。腹心である東洋を暗殺された容堂は激怒し、勤王党の弾圧に乗り出し首謀者である半平太は1985(慶応元)年に切腹させられることとなった。また、東洋暗殺の前にも半平太は岡田以蔵(人斬り以蔵)らを使って暗殺を繰り返していたが、この方針に嫌気がさした坂本龍馬は勤王党を離れ、独自の行動を取るべく脱藩した。そして坂本と中岡慎太郎の行動は一連の明治維新へつながる大きな原動力となったのは衆知の通りである。坂本は東洋暗殺の前に勤王党と袂を分かっていたため、容堂も一脱藩者としてしか見なさなかった。暗殺当事者の那須は暗殺後、ただちに脱藩し長州に向かった。ここで倒幕派として活動後、奈良で天誅組挙兵に参加、同郷の盟友である吉村虎太郎とともに戦闘中に死亡した。