大野小学校(池川町)  おおの   へき地級2(1978)
  1872(明治5)年ごろ創立、1973(昭和49)年北部小学校(用居)へ統合、北部小も池川小学へ統合されたため校区変更が2度あった

 池川町中心部土居から国道とは名ばかりの494号線を用居川に沿って上流へ向かう。途中、大西小学校跡を過ぎて用居川を南→北→南→北と三度渡ってすぐ国道と別れ椿山方面へ入る。薄暗い谷筋を進むとやがて集落が見えてくる、そこが大野集落である。
 現在大野小学校跡は集会所が建設されているが、校庭の雰囲気もそのまま残っており片隅には記念碑があった。閉校は1974(昭和49)年3月となっている。校区は大野と百川内の2地区。
 
児童数

1912(T1) 1926(S1) 1945(S20) 1955(S30) 1965(S40) 1973(S48)閉校時
45 50 62 48 47 15


 平成14年時点での大野地区全体の人口は41人戸数23である。1960年代までの児童数よりも現在の総人口数が少ないのである。写真に写っているのは大野集会所だが、かつて校舎は同じ場所にあったらしい。昭和初期にここに移転後、戦後の教育改革では当初から3学級の複式でスタートし、1955(昭和30)年に改築されたそうだ。学校沿革史を見ると1950年代後半に入って生徒数が激減し、休校となったようだ。1972(昭和47)年には上流部にあった椿山小学校が一足早く休校になっているが、大野小学校に統合されずそのまま北部小学校へ統合されている。大野小学校もこの時点で統合の話が進められていたためである。記念碑には1876(明治9)年創立とあるが古老の話や各資料ではでは1872(明治5)年頃には既に学校が存在していたそうである。
閉校直後の大野小学校
 大野集落の外れには神社があり、以前はこの地区だけのメンバーで青年団が作られていて演劇や神楽などを奉納していたそうだ。1955(昭和30)年の時点で地区全体に約250人ほどの人口があった、おそらく終戦直後には300人を超えていたはずだと聞いた。家の数も多かったそうで、調べてみると1955(昭和30)年には戸数53となっている。