椿山小学校(池川町) つばやま
1876(明治8)年に創立1972(昭和47)年用居小学校へ統合、その後用居小学校も北部小学校への改称を経て池川小学校へ統合
池川町中心部土居から愛媛県久万町に向けて国道494号線を走り、大西小学校跡付近で北岸へ渡り、いったん南岸へ渡り返したあともう一度北岸へ。そのまま国道と別れて直進し、大野小学校跡を見ながら進んだ先に椿山集落がある。急斜面にへばりつくような形で家々が建っている。1955(昭和30)年の記録では45世帯245人を数えているが、2000(平成12)年には13世帯19人と激減している。
児童数
1912(T1) | 1926(S1) | 1945(S20) | 1955(S30) | 1965(S40) | 1972(S47)閉校時 |
45 | 32 | 10 | 2 |
椿山小学校跡
学校設立は1876(明治8)年で、当初は下流にある大野小学校の分校として設立され、上級生になると大野小学校へ通学していた。1888(明治20)年に椿山簡易小学校として独立したものの、4年後に尋常小学校制となって一度大野小学校分教場となったが、1902(明治34)年に再び独立した。それ以降は戦後の教育制度改革を経て1972(昭和47)年に用居小学校へ統合されるまでの歴史を刻んだ。
在りし日の椿山小学校
訪問したのは2004(平成16)年4月、校舎は解体されて集会所が建てられている。この椿山集落は高知県でも最も最後まで焼き畑農業が行われていた。池川町内でも各所で行われていたが1950年代になってから急速に廃れ、椿山は1970年代までその記録が残っている。焼き畑には春焼き・夏焼き・秋焼きがあり、山焼きをした最初は雑穀類を播いて食料を作り、2〜3年後に楮・三椏を植えることが多かった。雑穀も山焼きの季節により、それぞれ耕作物が違っていた。春焼きは主にトウモロコシ・ヒエ・サツマイモ、夏焼きはソバを播いて秋に収穫し後作に麦を播く家もあった。秋焼きは麦を蒔き、翌年に楮・三椏を植えるケースが多かった。いずれの場合も楮・三椏を植えた後にも大豆や小豆を間に植えることもあった。産業構造の変化とともに楮・三椏の価格が急落し、過疎化が進み山焼きをする人がいなくなり、かつて山中を覆った真っ黄色の三椏の花畑はすべて杉檜に取って代わり、その影は見るすべもない。