安居小中学校(池川町) やすい へき地級1(1978)
安居小学校は1875(明治8)年に創立、1997(平成9)年池川小学校に統合。安居中学校は1981(昭和56)年に池川中学校へ統合。
池川町中心部土居から国道439号線を少し東進し、富岡トンネル手前で安居方面へ向かう。やがて対岸に安居小中学校跡が見えてくる。現在は中学校校舎は取り壊されており、安居小学校校舎のみが残っている。「鬼龍院花子の生涯」などで有名な作家宮尾登美子氏が教員をしていた時代に初赴任地となったのが安居小学校だそうだ。校庭跡にはその旨の看板が立てられている。
1875(明治8)年に設立された安居小学校も120年余の歴史を刻んだあと、その時計を止めた。最盛期は1947(昭和22)年に230人の児童を要していた。
児童生徒数
1912(T1) | 1926(S1) | 1945(S20) | 1955(S30) | 1965(S40) | 1975(S50) | 1980(S55) | 1985(S60) | 1993(H5) | 1997(H9) | |
安居小学校 | 不明 | 不明 | 178 | 176 | 99 | 45 | 18 | 10 | 5 | 3 閉校 |
安居中学校 | 120 | 71 | 17 | 5 | 閉校 |
安居小中学校跡(左端が小学校校舎)
数キロ奥には安居銅山跡があり、戦前の一時期には欅谷分教場が置かれていた記録が残っている。安居銅山自体は江戸時代から続く鉱山であったが、1938(昭和13)年に日本鉱業株式会社(現JXホールディングス)が経営権を握った。さすがに戦前派閥の一画を占めた日産コンツェルンの中核企業だけあってか、従業員子弟の教育ということで、分教場が即座に設置された。鉱山だけでなく営林署職員の子弟を含め、30人程度の児童がいたらしい。その後太平洋戦争の開始とともに政府の南方政策に基づきよりよい鉱物資源を求めて日本鉱業は東南アジア(特にマレーシア)への進出をすることになり、1942(昭和17)年に安居銅山経営から手を引き分教場は閉鎖された。
欅谷分教場跡付近
このほかにも戦前に広沢分教場の記録が残っている。かつて吾北村との境界近くに広沢という開拓部落があり、大正時代から1940(昭和15)年頃まで分教場が開設されていたらしい。その後1941(昭和16)年の富岡村と池川町の合併時に閉校され、本校である安居小学校に通学していたようだ。広沢部落自体が1965(昭和40)年に消滅しているため、詳細な記録は不明である。
安居小中学校校庭跡
在りし日の安居中学校
2009(H21)年4月の時点で校区内の児童数はゼロ。ただし2名の幼児がいるので数年後にはスクールバスの出番が来るかもしれない。
安居小学校校歌
1 清い流れの安居川
若あゆおどる渓谷に
明るい声をはずませて
心と体 きたえ合う
たくましくのびる 安居の子
2 紅葉燃ゆる宝来山
飛龍のしぶきあびながら
みんなの手と手 とり合って
仲良く遊び 助け合う
心ゆたかな 安居の子
3 高くそびえる雨ヶ森
きびしい雪のいただきに
大きな希望ふくらませ
たゆまぬ学びきそいあう
未来にはばたく 安居の子
安居中学校校歌
1 流れも清し安居川
遙かに手箱望みつつ
集う吾等この学舎は
笑ましき団結これ誇り
2 自然の絶景限りなく
温情あたり満ち溢れ
集う吾等この学舎は
自由の翼これ誇り