樫山小学校(池川町) かしやま
1888(明治21)年に創立、1966(昭和41)年安居小学校へ統合、安居小学校も池川小学校へ統合されたため校区変更が2度あった
池川町中心部土居から国道439号線を少し東進し、富岡トンネル手前で安居方面へ向かう。途中、安居小中学校跡を過ぎてさらに安居川沿いに遡ると宝来荘に着く。樫山小学校跡はここからバンガロー村へと登り、バンガローが途切れて民家が見えだしたあたりにある。樫山小学校の前身である樫山簡易小学校は1888(明治21)年に創立、当時は樫山神社付近にあったと記録に残っている。校舎崩壊や移転を経て、しばらくは安居小学校(のち安居国民学校)樫山分教場となっていたが、1952(昭和27)年に池川町立樫山小学校になった。複式学級での授業しかなかったとはいえ、最盛期には40人の児童を数えていたが過疎化の波には抗えず、1966(昭和41)年から安居小学校へ統合された。その後、樫山小学校跡は集会所が建設されている。
児童数
1912(T1) | 1926(S1) | 1945(S20) | 1955(S30) | 1965(S40) | 1966(S41)閉校時 |
不明 | 不明 | 27 | 26 | 15 | 11 |
樫山小学校跡
平成12年12月の資料では樫山地区の人口は20人戸数16となっている。昭和20年代半ばでは30世帯を越え、総人口は200人を上回っていたようだ。今では戸数16といっても実際には病気入院などで居住していない人もいるらしい。かつて国鉄時代には宝来荘のあたりまで(たしか若山橋という終点だった)路線バスが運行されていた。樫山小学校の統合に際しても、登校時は時間の関係でタクシー委託をしていたが下校時には国鉄バスを使用したと池川町の記録に残っている。昭和の終わりにバス路線が短縮され、安居までとなったがやがてそれも国鉄からJRに変わったあと廃止された。かつて池川町に限らず、高知県内を走り回っていたツバメマークのバスは過疎とともに今では数路線を残すのみである。現在はスクールバスが安居まで運行されているのみである。
樫山小学校(1975年ごろ)
高知県でも屈指の紅葉の名所で名高い安居渓谷だが、シーズンを外れれば訪れる人もなく静まりかえった山峡である。訪問した平成16年3月現在、ここから池川小中に通学する児童生徒は一人もいない。一番の若手で70歳を少し越えたというのが樫山の実情である。以前4業者が出入りしていた移動販売スーパーも大手は撤退し、今は個人経営の2業者が来るのみである。
元々樫山地区の住民は典型的な山村農林業兼務で生計を立てていた。自家消費用の米・野菜・雑穀を自宅周辺で栽培し、もっぱら国有林に関わる林業が現金収入であった。まず山仕事に見切りをつけた若者が県外へ流出し、続いて転職可能な壮年世代が一家離村するという過疎方程式がここでも繰り返された。いずれにも対応できない老人世帯のみが取り残され、高齢化が一気に進んだ。地区内には1町3反の共有林があって35年生の杉が植えられている。しかし高齢化と木材価格の低迷で放置されており、植林時には8tトラックで10万円を越えていた集落共有の財産はおそらく1万円にもならないであろう。土葬のための土掘りすらままならず、冠婚葬祭にも大きな支障が出ている。こういった本来集落自治で行っていた機能は地区外への転出者を頼るしかない状態である。そのため残った老人達は彼らとの数少ない接点である地区内の氏神様の祭りだけは絶対に欠かせない。公共交通が存在しないため病院に行くときですら往復で5千円ほどのタクシーをわずかな年金生活の中から捻出し、それが家計の大きな負担となっている場合が多いそうだ。ちなみに自家用車を運転できるほどの健康者はわずかしかいない。