瓜生野小学校(池川町) うりうの へき地級2(1973)
1879(明治12)年檜谷分校として設立後、移転改称を経て1974(昭和49)年北部小学校に統合
池川町中心部土居から国道494号線を愛媛県境へと向かい、用居集落を過ぎて通開無し(トウカイナシ)と呼ばれる断崖をさらに進んだ先のカーブ右手に瓜生野小学校跡がある。今でこそ何もない集落であるが、かつて1984(昭和59)年までは国鉄(現JR四国)バスがここまで運行されていた。作者は旧松山街道を歩くため、このバスに乗車したことがあるが幅がバス1台分しかない狭い山道はスリル満点であった。
児童数
1945(昭20) | 1955(昭30) | 1965(昭40) | 1974(昭49)閉校時 |
113 | 88 | 60 | 33 |
瓜生野小学校跡
瓜生野小学校が設立されたのは1879(明治12)年、当時の用居小学校分校として檜谷に分校が設立されたのが発端である。その後現在の場所に巡回教室を経て瓜生野簡易小学校として独立したのが1887(明治20)であった。以来87年余の歴史を刻んで1974(昭和49)年に北部小学校へ統合された。統合に関しては瓜生野地区では反対意見が多かったが、当時の池川町長が「この統合でできた北部小学校はどんなことがあっても存続、用居地区から学校は消さない」という口約束があり最終的に統合で折り合ったようだ。これは瓜生野地区以外でも北部小学校校区で複数の住民から聞いた話なので間違いはないようだ。しかし、統合後も急激に過疎化は進み。生徒数が片手で足りるような状態ともなると再統合は避けられず、北部小学校も池川小学校に統合された。
閉校直後の瓜生野小学校
平成12年の資料ではかつて瓜生野小学校校区であった舟形・檜谷・折尾・瓜生野地区の住民は74世帯134人となっている。児童生徒はゼロである。
校庭片隅に石碑があり、用居在住のN氏による詩が彫られている。
「瓜生野」
瓜生野よ 山高きさいはての村よ
三十年余も遠き日の清き思い出よ
子供たちよ 村人たちよ
いつまでも影を追いつつ
あの山に向かって泪する
憶しき心よ 子供達の微笑よ
ああいつの日にか またいつの日にか
あの山に抱かれたあの森に立ちて
子供達の歌声高らかに
作者のN氏は元教員で瓜生野小学校勤務時代の思いをこめた詩だそうだ。ほかにも定年後にここを訪ねてくる元教員は多いそうで、「皆さん、瓜生野小学校の勤務は非常に思い出深いと言っています」と学校跡近くの老人が教えてくれた。