狩山小学校(池川町)  かりやま   へき地級1(1978)
  1876(明治9)年創立後、1980(昭和55)年池川小学校へ統合

 池川町中心部土居から国道439号線を吾北村へと走り、富岡トンネルを抜けた先に狩山小学校跡がある。今ではバイパスが通ったので一瞬のうちに対岸を駆け抜けるのだが、かつては旧道の道沿いに集落の中心として学校があった。校舎は既に取り壊されて老人介護施設が建てられている。
 
児童数

1912(T1) 1926(S1) 1945(S20) 1955(S30) 1965(S40) 1970(S45) 1975(S50) 1980(S55)閉校時
163 181 207 114 86 53 31 19

狩山小学校跡
 狩山小学校は1876(明治9)年に当時の富岡村立狩山小学校として設立された。その後富岡村と池川町との合併があったものの一部校区の変更があっただけだった。狩山は楮三椏の生産だけだはなく、製品化にも成功し戦前までには狩山和紙という手漉き障子紙の生産で名をはせた時期もあったようだが、洋紙の日常化と機械漉きとのダブルパンチで今はその技術そのものがほぼ途絶えてしまった。
 この富岡村との合併が1941(昭和16)年にあったためか、昭和の大合併では池川町は他の町村と合併することはなかった。さすがに60年余もたてば、富岡村の痕跡を探すことは難しい。確実なのは合併を境にこの地域は寂れたという地元住民の感想である。しかし、狩山地区においても富岡村という単語と断片的な話が通じても、その詳細をうかがえる世代はもうほとんどいない。
1981(昭和56)年撮影
 作者は狩山小学校閉校直後の1981(昭和56)年夏に祖父母宅のあった池川町へ遊びに行きし、往路は高知市から佐川町〜吾川村経由、復路は吾北村〜伊野町〜高知市と自転車で走ったことがある。当時は池川町役場からずっと狭い道を通り、旧大峠トンネルを抜けて吾北村高岩へ走ったのだが、この頃はまだ国道ではなく県道であった。行き交うあるいは追い抜く車もほとんどなかったように記憶している。新大峠トンネルが開通し、あと数年で高岩まで完全2車線となったとき、狩山のみならず池川町はどうなるのだろうか。おそらく、そのころには池川町という名前は町村合併によって消えている可能性が高い。

狩山小学校校歌
1 清き流れの渓(たに)川の 水上高き吾が校は
  東に黒森大峠と 北に矢筈の霊地あり

2 春夏秋冬たゆみなく 四山(よも)の霊気に身を浄め
  大御心を仰ぎつつ 努(はげ)む健児の雄々しさよ

3 陰と陽のなき勤勉 礼儀作法は規律よく
  身体(からだ)に元気満々て 誠心こめていそしまん

4 父母と慕うて教えうけ 赤子と撫でて養育す
  師弟の結び幾年も かわることなき狩山校