旧西土佐村 【廃校小学校】玖木  中半  権谷  黒尊(分)  奥屋内  川崎  口屋内
        【廃校中学校】奥屋内  口屋内  藤ノ川  津野川  大宮  江川崎
        【休校小中学校】下家地小(2002〜) 藤ノ川小(2003〜)  大宮小(2011〜)  津野川小須崎小・西ヶ方小・本村小(2012〜) 小13中6合計19校 
        【現存小学校】西土佐(旧川崎)
        【現存中学校】西土佐
        【現存県立高校】中村西土佐(分)  小1中1高1合計8校
  
学校統廃合の流れ
1957(昭和32)年 黒尊分校を奥屋内本校に統合
1968(昭和43)年 玖木小学校が廃校
1977(昭和52)年 村内中学校再編
            奥屋内・口屋内・藤ノ川・津野川・大宮・江川崎の6中学校を統合して新設の西土佐中学校に
1987(昭和62)年 中半小学校休校(1998年廃校)
1999(平成11)年 奥屋内小学校休校 2011(H23)年廃校
2001(平成13)年 下家地小学校休校
2002(平成14)年 藤ノ川小学校、権谷小学校休校
2006(平成18)年 権谷小学校廃校
2011(平成23)年 大宮小学校休校
2012(平成24)年 旧西土佐村小学校再編 口屋内小・津野川小・須崎小・西ヶ方小・本村小を休校し、川崎小を廃校施設改造して西土佐小として発足

Thanks 西土佐村教育委員会 四万十市教育委員会 四万十市福祉課

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 幡多郡西土佐村は2005(平成17)年4月1日に南側の中村市と合併し、四万十市となってその歴史を終えた。旧西土佐村は1958(昭和33)年いわゆる昭和の大合併で、津大村・江川崎村が合併して誕生した。合併直後の1960(S)年には8,574人の住民がいたが、四万十市誕生の時点では半減以下の3,746人となっている。高知県の西端部に位置し、村の中央を四万十川が南流し、北部をJR予土線が走っ ており村内に3駅がある。
 平地は川の流域にわずかに見られる程度で、村の面積の91%を森林が占め良質の木材を産する。古くは水運の拠点として栄え、1974(昭和49)年のJR予土線開通までは宇和島線の終着駅であった。南予から土佐への入り口という交通の要所で、経済・文化圏は愛媛県宇和島市に入っている。このため一時は越県合併も討議された経緯がある。実際に訪れてみると時間的にも地理的にも宇和島市との距離は非常に近いものがある。 明治時代の農民組合指導による小作争議(高知県内初)も愛媛県側からの協力で行われた記録が残っている。
 学校の統廃合は比較的緩やかに行われてきた。これは深い峡谷を有する地形的な問題と昭和の大合併時に学校の統廃合を避けるという合意があったからであろう。しかし道路の改良が進んだ結果、約30年前に中学校が完全統合された。そして2011年を目処に小学校も1校という計画が正式に公表され、2012(H24)年度から川崎小学校を改築改称して西土佐小学校となった。もう一つ統合が検討されていた中村高校西土佐分校は生徒入学数が存続ラインを越えていることから当面の存続が決定となった。

 平成の合併では当初の高知県試案では幡多地域広域合併案(佐賀町・大方町・西土佐村・中村市・宿毛市・三原村・大月町・土佐清水市)もしくは東西(佐賀町・大方町・西土佐村・中村市と宿毛市・三原村・大月町・土佐清水市とのグループ)2分割案が出ていた。広域合併案はさすがに協議内容が複雑になりすぎて時間的な余裕がないということで流れた。西土佐村は地理的に結びつきの強い十和村・大正町との合併協議を並行するという選択肢も残していたが、ひとまずは東西での合併協議が進んでいた。ところが東グループは庁舎位置を巡って紛糾し、佐賀町と大方町の住民投票によって合併否決となり、この2町の離脱が決まった。結果的に東グループは残った中村市と西土佐町が四万十市になり佐賀町と大方町も黒潮町として発足することになった。いっぽう西グループは土佐清水市の合併協議参加を巡って対立し、三原村が離脱した。残った宿毛市と大月町で合併協議が進められ、合併協定に調印したものの議員定数と選挙区割りで紛糾し大月町議会の否決により白紙となった。

 西土佐地区の小学校統合時には住民主体で閉校後の学校利用方法について検討する方針だったようで、2012(H24)年3月に西土佐ふれあいホールにて「廃校舎利活用フォーラム」が開催されている。作者はこの際に基調講演をするという暴挙に出てまあ何とか一時間好き勝手にしゃべった次第である。なかなか廃校舎の永続的な利活用は様々な面で難しいのが実情だが少しでも関わった身としてはうまくいって欲しいなと思う。