津野川小中学校(四万十市=旧西土佐村)  つのかわ   へき地級1(1978)
  旧津大村立津野川小学校・津野川中学校として設立、合併で西土佐村立→四万十市立(小学校のみ)に改称。中学校は1977(S52)年、小学校は2011(H23)年度に統合。
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53) 1998(H10) 2004(H16)
在籍児童数 120  210  119  39  41 
在籍生徒数 73  115  57       


 
 津野川小中学校跡へは旧西土佐村役場のあった江川崎から国道381号線を南下し、四万十川本流と分かれて支流の目黒川に入る。県道108号西土佐松野線を3kmほど走ると右手山裾に県立中村高校西土佐分校が見えてくるがそのすぐ横にあるのが津野川小中学校跡である。小中学校併設とはいえ校舎はすぐに独立しており、木造校舎が並んでいたそうである。津野川中学校は1977(S52)年の村内中学校統合によって新設の西土佐中学校に統合されている。その際に津野川小学校も現在の校舎に建て替えられ体育館も新設された。

 訪問は2016(H28)年12月、昨年この奥の須崎小学校訪問以来となる。主な小学校校区は大字津野川で小字は津野川・橘・坂本・江尻・川口などがあり、1988(S63)年に中半小学校が休校となった際にはその校区も加わっている。津野川地区の名前は織豊期から確認されているが、確実な情報として記録文献上に登場するのは1589(天正17)年の「下山郷地検帳」に津野川村として登場し、検地面積や居住者などが記載されている。江戸時代の地検帳ではだいたい村内総人口が400人前後で推移していた記録が残されている(ただし薮ヶ市や須崎などの大字も含まれている)。当時の主な産物に楮・茶・葛・蕨が記されている。元々、大宮口・家地口・西ヶ方口からの往還道が合流する当地には番所が置かれていたが1657(明暦2)年から始まった土佐藩と宇和島藩の国境紛争ではさらに重要視され、百人郷士が設けられたという記録がある。津野川の庄屋間崎家は藩主視察の際には本陣として利用され、佐賀の乱でで土佐に逃れた江藤新平も間崎家に泊まったという。

 学校遠景(左の白い建物は中村高校西土佐分校体育館)

 現在は県道バイパスが川沿いを走っているが旧道が残っており、以前は県道が学校前を通っていたことがわかる。入り口手前には統合後に運行されているスクールバスの看板がある。そのすぐ先には閉校記念碑があり、左手に階段を上がって校舎(一階は駐車場)、正面が体育館、右に校庭、体育館の一段上にプールとなっている。1980年頃までは田んぼの真ん中を校庭に向かって通学路が延びていたそうで今でも校門跡が残っている。江川崎の教育委員会分室で伺った話では閉校から5年経っているが今のところ休校のままで特に跡地利用は具体的にはなっていないそうである。



 閉校記念碑

 玄関

 校庭から校舎と体育館

 校舎

 プール(25mx3)

 低学年用補助プール

 校門跡

 学校の歴史は校史沿革によると1874(M7)年に高知県校区制定で第46番中学区第9小学区津野川学舎発足とあり、ここからまずは小学校の歴史が始まっている。その後教育制度変更による改称を経て1947(22)年に津野川中学校が併設された。1950(S25)年には小中学校別々の校舎が新築された。前述のように中学校統合時に現在の校舎に建て替えられ現在に至っている。

 橘からは四万十川河口の下田港まで船輸送が行われていて、1922(T11)年から1930(S5)年にかけてはプロペラ客船も運行されていた。1927(S3)年になってやっと川崎〜中村間に直通バスが運用され、人員輸送はそちらに移っていったが物資輸送は第二次大戦終了まで船による輸送が続いていた。当時は集落ごとに料亭や商店が建ち並び、橘にも数軒あったそうである。林業と炭焼きがメインだったが他の山間部と同様に高度成長期から一気に過疎化が進んだ。


津野川小学校校歌(作詞:津野川校歌制定委員会  作曲:谷本智希)

一  緑めぐらす山なみの 朝霧晴れて風かおる 伸びる若木と競い立ち 心も強く豊かにと みんなで学ぶ ああ津野川小学校
二  流れも清い四万十の きらめく光見に浴びて 若鮎のごとたくましく 体をきたえ技を練り みんなで励む ああ津野川小学校
三  古きを伝える辰巳城 ゆかりの藤にはぐくまれ 先人の徳ほこらかに 未来を望み意気高く みんなで進む ああ津野川小学校