須崎小学校(四万十市=旧西土佐村) すさき へき地級2(1978)
旧津大村立大宮小学校分校として設立、独立後に合併で西土佐村立に改称。2011(H23)年度に休校して西土佐小学校に統合
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | 1978(S53) | 1998(H10) | 2004(H16) | |
在籍児童数 | 51 | 54 | 40 | 30 | 18 | 9 |
須崎小学校跡へは旧西土佐村役場のあった江川崎から国道381号線を南下し、四万十川本流と分かれて支流の目黒川に入る。県道108号西土佐松野線を走り、右手に津野川小学校と中村高校西土佐分校を見ながら7Kmほど遡ると正面の高台に須崎小学校が見えてくる。
集落の中心にあるのがよくわかる
校門には学校銘板が残っている
訪問は2016(H28)年2月。休校前の校区は須崎・藪ヶ市となっていた。須崎地区は現在でこそ四万十市西土佐須崎となっているが、その歴史は相当に古いと思われる。確実な情報として記録文献上に登場するのは1589(天正17)年の「下山郷地検帳」に須崎名としてだが、それ以前からの居住であることは間違いない。江戸時代の土佐州郡誌では洲崎村という名前で記述があり、戸数23となっている。ただしこれは東西15町・南北10町となっているので単純に今の学校周辺だけの記録であろう。江戸時代末期から明治時代にかけては下山下分、後に津野川村の小村となり、1889(明治22)年の町村制施行で津大村の大字となった。薮ヶ市も同様に1589(天正17)年の「下山郷地検帳」に藪我市村として登場する。それ以後の所属は須崎と同じである。
校庭からの校舎と体育館
校舎
体育館
校舎(裏門から)
校庭
須崎小学校の歴史は校史沿革によると1874(M7)年に校区制定で津野川小学校校区とあり、ここから教育歴史が始まったことになっている。ただしこれは校区制定だけであって実際には1881(明治14)年の津野川小学校薮ヶ市分校設立から始まると思われる。薮ヶ市に建設された学校は1906(明治39)年に地主の無償提供があり須崎地区の大竹奈路に移転した。
大竹奈路の旧学校跡
大竹奈路の旧学校は非常に狭い敷地で20x10m少々の中に校舎と職員官舎があり、校庭・運動場は皆無に等しい状態だったらしい。運良く旧学校跡の地主さんに逢うことができ、写真撮影とWeb掲載の許可をいただき、厚かましくもいろいろ話を聞かせて貰った。無償提供したとはいえ、その後も様々な用事はかなり面倒をみたこと、手狭なので移転した際の状況を教えて貰った。1947(昭和22)年の教育制度改革で大宮小学校須崎分校となったが、須崎と薮ヶ市の青年団が昼夜を分かたずに山を削って敷地を造り、今の校舎・体育館・校庭(運動場)を造成したとの事。1950(S25)年に移転し、一年後の1951(S26)年には須崎小学校として独立本校となった。その後は津大村→西土佐村→四万十市となったが旧西土佐村地域の学校再編により西土佐小学校に統合されて歴史は消えた。
校門から校舎に向かうと階段の手前に閉校記念碑、階段を上がって右手には開校百年記念碑がそれぞれ建立されている。
閉校記念碑
開校百年記念碑
須崎小学校校歌(作詞:須崎小学校父兄・教員 作曲:宮部博道)
一 清き流れの目黒川 緑の山にかこまれて 仲良く明るく逞しく 心と体をきたえるところ ああわが母校須崎須崎須崎小
二 みなもと遠く霊山の 滑床おろし吹きなびく 寒さに負けず咲く野菊 平和な村里はぐくむところ ああわが母校須崎須崎須崎小
三 峰の彼方へとぶ雲に 競う若鮎はねること 進もう集いの輪をつくり 西土佐の光たかめるところ ああわが母校須崎須崎須崎小