玖木小学校(西土佐村)  くき
  旧津大村立奥屋内小学校分校として設立、後に独立、合併で西土佐村立に改称後、1969(H44)年に廃校
 

 玖木小学校跡へは口屋内から黒尊川を8kmほど遡る。やがて左手に公民館とグラウンドが見え、そこが玖木小学校跡である。学校の歴史はやや複雑で1881(明治14)年に当時の奥屋内尋常小学校分校として設立されたが、5年後の1886(明治19)年に台風による校舎倒壊のため本校統合。20年後の1906(明治39)年に分校として再設置、長い間分校として存続していたが1956(昭和31)年に玖木小学校として独立。14年後に急激な過疎化のために廃校となった。
校舎は左手の木立の中にあったらしい

 訪問したのは2005(H17)年9月、この黒尊川は魚影が濃くその中でも口屋内から玖木小学校跡手前にあるカート場付近までは鮎の好漁場だそうだ。この日も太公望が何人か竿を出していた。作者は1980(昭和55)年の5月にここを訪れている。高校生の自転車旅行であったが、中村市で一泊したあと黒尊経由で宇和島市に抜けた。当時は口屋内からは黒尊スーパー林道となっており、黒尊まではよく踏み固められたフラットダートであった。玖木付近の詳細な記憶が残っていないのだが、口屋内から奥屋内の間は人家も少なかったはずで既に過疎化はかなり進んでいたのだろう。
 玖木周辺には民家も数えるほどしかなく、実際に訪れるとここに小学校があった事自体が信じがたい。訪ね歩いて何人かに話を伺うと、林業最盛期には県外からの出稼ぎ労働者が家族でそこらじゅうにいたそうだ。1950(S25)年には分校ながら65名の児童数を数え、その5年後には独立している。もともと黒尊川流域は天然林の宝庫で1960年代までは鬱蒼とした巨木の森であった。高知営林局(現四国森林管理局)の資料でも東の魚梁瀬と並ぶ美林であったことがわかる。森の王者ツキノワグマもその頃までは数十頭がこの地域に生息していたらしい。今は玖木小学校校庭跡に立って見回しても人工林しか目に入らない。今日、話を伺った方たちはいずれも80才に手が届くか越えた方ばかりであった。10年後、再びここを訪れた時再会できる方はどれだけいるのだろう。その時にこの地域はどうなっているのだろう。ここに限ったことではないが地方はこのまま完全に打ち捨てられるのではないか、取材を重ねるごとに暗い気分は募るばかりである。