旧香我美町 【廃校小学校】山北 西川 舞川(北部) 撫川 奈良 東川 香我美第一 山南 徳王子 岸本
【廃校中学校】組合立大忍 東川 舞川(北部) 西川
【休校小中学校】なし 小11中4合計15校
【現存小学校】香我美
【現存中学校】香我美 小1中1合計2校
注:北部小中学校は舞川小と撫川小統合時に校歌も変わっているので別校としています
学校統廃合の流れ
1950(昭和25)年 西川中学校を組合立大忍中学校に統合
組合立大忍中学校奥西川分校を新設
1952(昭和27)年 組合立大忍中学校奥西川分校を西川村に移管(西川中学校に改称)
1956(昭和31)年 山北小学校と西川小学校を統合し、山北小学校跡地に香我美第一小学校を新設
組合立大忍中学校を町立香我美中学校に改称
1963(昭和38)年 撫川小学校と舞川小学校を統合し、舞川小学校施設を使用して北部小学校に
同時に併設の舞川中学校も北部中学校と改称
1966(昭和41)年 奈良小学校を東川小学校に統合
1967(昭和42)年 東川中学校を香我美中学校に統合
1975(昭和50)年 東川・徳王子・山南・香我美第一小学校を統合し、香我美小学校を新設
1981(昭和56)年 北部中学校を香我美中学校に統合
1982(昭和57)年 北部小学校を香我美小学校に統合 のち2004(H16)年度で廃校
2019(平成30)年 年度内にて岸本小学校を香我美小学校に統合廃校
参考文献 香我美町史
Thanks 香我美町教育委員会 香南市香我美支所 香我美小学校 JAとさかみ
学校名の上でクリックすると各学校の紹介にジャンプします
香我美町は1955(昭和30)年に岸本町・徳王子村・山南村・山北村の4町村と西川村・東川村の一部を分村編入して誕生した。西川村と東川村はこの時分割されて、前者は香我美町・香北町・物部村.安芸市に後者は香我美町・夜須町・芸西村に編入された。近年になって三菱電機(株)の高知工場誘致が成功するなど、徳王子周辺では工業団地の開発が順調に進み各種企業が進出している(その後三菱電機は子会社移管ののちにルネサスに統合、ルネサス高知工場となったが後に高知工場は閉鎖)。しかしながら旧東川村と旧西川村地域は過疎化が著しく進行しており、特に撫川小学校校区は児童生徒どころか居住住民がほぼ皆無となっている。因みに作者の同級生や知人も最初の高知工場時代から三菱電機(株)社員となり、会社が変わりながら勤務していたが今はどうしているのだろうと思う。
学校の統廃合は当然のように旧東川村と旧西川村地域を中心に行われており、現在では両地区から完全に学校がなくなっている。平野部でも統合があったがこれは過疎化というよりは昭和の大合併時の旧自治体校区のままだった小規模校を老朽化のために統合した意味合いが強い。戦後70年にわたって唯一統合とは無関係だった岸本小学校が香我美小学校への統合が決定している。
当初この地域は下記に触れる香南の大合併が模索されていたが、影を落としていたのは大忍村の一件であった。1942(昭和17)年に決戦体制の確立を目指すために改正された町村法のもと、香宗村・富家村・山南村・徳王子村が合併し、大忍村となっている。高知県と大政翼賛会高知支部の主導で行われたこの合併は戦時中の米の供出を巡って紛糾し、わずか6年後の1948(昭和23)年に大忍村は分離解体された。この件が野市町の離脱を招いた一因となり、昭和の大合併は高知県サイドの思惑通りには進まなかった。 半世紀を経て再び合併案が浮上し、紆余曲折はあったものの5町村(野市町・赤岡町・夜須町・香我美町・吉川村)が対等合併することになり2006(平成18)年3月1日に「香南市」発足となった。
香南の大合併
元々この地域では昭和の大合併において高知県主導で夜須町・香我美町・野市町・赤岡町・吉川村の5ヶ町村を香南市としてまとめるという計画が持ち上がった。香南の大合併と呼ばれ、まさに鳴り物入りで進められた。高知県はこの合併案に対し「1:高知県知事は内閣総理大臣と協議して合併勧告を行う 2:知事の勧告後90日以内に合併議決をしない場合、知事は内閣総理大臣からの勧告を求める 3:それでも合併しない場合、国・県の財政支援を打ち切る」という強硬策を押し立ててきた。よく読めばこの策はもうメチャクチャである、そこには住民の意思というものは存在しない。
しかしいきなりこういう事を言われてはいそうですかと従うのは無理で、1957(昭和32)年にまず1案を発動。急遽合併協議会が立ち上げられたが、本庁舎を野市町に決定するのが精一杯。焦った(と各市町村史などの公式記録に明記してある)高知県は1958(昭和33)年9月に2案を発動、夜須町・香我美町・赤岡町・吉川村は合併やむなしで態度を決めた。ところが野市町が町議会においてこの合併案を敢然と拒否、当時の記録では明け方まで議会が紛糾したが結局単独自立を採択したとある。野市町はこの時点で3の発動を覚悟していたようだが、他の町村にとってはまさに寝耳に水といった案配であった。このためこの問題はさらに紛糾したが結局さすがにそれ以上の強硬手段はとれずにこの合併案は立ち消えとなった。実際のところ、各町村とも直前の合併で苦労をしており、そのほとぼりも冷めぬうちの新たな合併はあまりにも性急だったようだ。
何故に高知県がこのような強攻策を打ち出したかというと、昭和の大合併が思惑ほど進まないため国からの圧力があったのではないかと思われる。終戦直後1市169町村だった高知県内の自治体を6市36町村まで減らすのが当初の予定であった。ところが1954(昭和29)年の段階で6市83町村でしか話がまとまらず、他の市町村への見せしめという意味があったのではなかろうか。最終的に昭和の大合併は9市44町村まで落ち着いたのだが、さすがに財政支援の打ち切りまではできなかっただろう。