撫川小学校(香我美町=現香南市)  むがわ
  旧東川村立撫川小学校として設立、香我美町立へ改称後1963(S38)年に舞川小と統合
 

  1958(S33) 1963(S38)
児童数 25  17 


 撫川小学校は旧東川村立として設立されたが昭和の大合併で東川村が3分割された際に撫川地区が香我美町編入となり、香我美町立となった。早くから過疎が急激に進んでいたため、かなり早い時期となる1963(S38)年に廃校となった。統合先の北部小学校(実質的には舞川小学校)も1982(S57)年に休校となっている。昭和34(1959)年版「全国学校名鑑」では東川小学校撫川分校となっているが、香我美町史ではそういった記載がないので独立校としている。

 人工林の中に残る校門跡

 訪問は2010(平成22)年11月、3月に畑山小中学校(安芸市)を訪問した帰りに撫川小学校跡を探してみたのだがわからずに断念、それ以来となる。何せ現在地区内に住民がほぼ皆無となっており(香南市香我美支所で伺うと数人の住民票が残っているが居住実績となると怪しいとの事)、いったん舞川地区で場所の情報収集をする。その結果撫川公民館前の人工林の中に校門が残っているというので県道29号安芸物部線を進む。公民館と言っても荒れ果てており、舞川で詳細な場所を聞き込んでいなければ間違いなく通り過ぎてしまうところであった。公民館の県道向かい側に雑草に埋もれて石段があり、上ってみると校門跡がたしかに残っていた。他に痕跡はないか薄暗い人工林の中を探してみると「憂国」と書かれた石碑があった。おそらく戦前に建立されたものであろう、もしかしたら近くに二宮金次郎像もあったのかもしれない。

 「憂国」石碑

 いくつか人家があったので微かな期待を抱いて訪問してみたが生活の気配もなく、やはり居住者はいないようであった。そのうちの一軒の軒先には板きれに「明治十四年四月十八日 高知縣土佐國香美郡東川村 平成十八年四月 高知縣香南市香我美町撫川」と書かれてあった。香南市誕生は平成十八年三月一日であり、一ヶ月のずれがある。家まわりの状況からするとこの日付はこの家の住民が当地を去った日ではないかという気がした。作者の実家もそうであったし、池川町(現仁淀川町)岩柄でも山を下りる際にその日付を期して出ることが多い。旧漢字の書き方からするとかなりの年配の方ではないかと思われた。



 学校跡の少し上流側には神社が残っており、こちらは手入れされている。すぐそばには柚子畑があり、おそらく通いで作業をしに来ているのではないかと思われる。一応人家もあるが倉庫状態となっていた。統合時における校区内の児童数は17名の記録が残っているが、当然現在の児童数はゼロである。