安芸市 【廃校小学校】栃ノ木 安芸ノ川(分) 正藤(分) 八ノ谷 畑山 大井 別役 藤内(分)
【廃校中学校】正藤(分) 別役 畑山 伊尾木 川北 土居 井ノ口 栃ノ木 東川 清水ケ丘 (旧)安芸
【廃校県立高校】桜ヶ丘(旧安芸工業)
【休校小中学校】上尾川小中(1987〜) 古井小・古井中・東川中(2001〜) 奈比賀(分)(2009〜) 東川(2018〜){注1} 小12校中13高1合計26校
【現存小学校】下山 伊尾木 川北 井ノ口 土居 安芸第一 穴内 赤野
【現存中学校】安芸 県立安芸
【現存県立高校】安芸 小8中2高1合計11校
学校統廃合の流れ
1963(昭和38)年 畑山小中学校正藤分校が独立、正藤小学校・正藤中学校となる
1965(昭和40)年 伊尾木・川北・土居・井ノ口・栃ノ木の5中学校を新設の清水ヶ丘中学校に統合
1966(昭和41)年 奈比賀小学校藤内分校を本校に統合
1975(昭和50)年 栃ノ木小学校安芸ノ川分校を本校に統合
正藤小中学校を川北小学校と清水ヶ丘中学校に統合(集落集団移転先)
1976(昭和51)年 4月 大井小学校を東川小学校に統合
1979(昭和54)年 4月 栃ノ木小学校を井ノ口小学校に統合
1980(昭和55)年 4月 別役小中学校を古井小中学校に統合
1982(昭和57)年 4月 八ノ谷小学校を東川小学校に統合
1986(昭和61)年 畑山中学校休校
1987(昭和62)年 畑山中学校復校
上尾川小学校休校
1990(平成 2)年 畑山小学校・畑山中学校休校 のち1996(平成8)年廃校
上尾川中学校休校
2001(平成13)年 古井小中学校休校
東川中学校休校
2002(平成14)年 県立安芸中学校開校
2005(平成17)年 奈比賀小学校を川北小学校奈比賀分校に変更
2009(平成21)年 奈比賀分校休校
2018(平成30)年 東川小学校休校
2023(令和5)年 県立安芸桜ヶ丘高校を県立安芸高校に統合
2024(令和6)年 安芸中学校と清水ケ丘中学校を新設の安芸中学校に統合
2016(H28)年12月の安芸市議会12月定例会にて横山市長が2小1中(現在は9小2中)への統合方針を表明した。小学校は現在の中学校校区をベースに、下山・伊尾木・東川・川北・土居・井ノ口の6校統合と安芸第一・穴内・赤野の3校統合。少子過疎化による児童生徒数減少と南海トラフ地震による津波浸水予測区域に下山・伊尾木・川北・土居・安芸第一・赤野の6小学校と安芸中学校が含まれており高台への移転を迫られていることが主な理由。時期は未定。
参考文献 安芸市史
Thanks 安芸市教育委員会
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安芸市は1954(昭和29)年8月に安芸町・伊尾木村・東川村・畑山村・土居村・川北村・井ノ口村・赤野村の8町村が合併して誕生している。安芸川と伊尾木川の流域全体が一つの自治体となったわけである。翌1955(昭和30)年4月には西川村の轟地区を編入合併(西川村はこの時4町村に分村編入した)して現在の形となった。合併時に3万人を越えていた人口は2009年暮れにとうとう2万人を割り込んだ。特に北部山間部での過疎化は著しく、旧畑山村・旧東川村併せて4,895人(1954年合併当時)から788人(2000年)にまで減っている。児童生徒に至っては1003名からわずか4名となっている。当然この地域を中心に学校の統廃合は進んでいる。既に旧畑山村には合併時419名の児童生徒が皆無となり、旧東川村も584名から東川小学校の2名と中学生2名のみとなっている(東川小学校在籍児童4名のうち2名は山村留学生のため地元住民ではない)。
旧東川村に隣接する馬路村が村あげての取り組みで柚子の村として有名になった。少子化過疎化の中で山村としては健闘しており、人口減少率は56%にとどまっている。親の就労場所を確保することで児童生徒の減少を最小限に食い止めている。いっぽうの安芸市は平野部での農業(茄子・ピーマンなど)は盛んであり積極的な補助も行われてきたが、山間部に対する重点的な施策は合併直後以外には特に行われずにここまで来た。馬路村と旧東川村は1955(昭和30)年時点では非常に似通っていた部分が多い。面積は約160平方キロ、人口も2,800人少々とほぼ同じ規模の自治体であった。財政規模としては旧東川村のほうがやや大きかったようである。主産業の一つ、森林率は旧東川村が14,000ha足らずで馬路村が15,000ha少々、これも似たような数字である。ところが国有林面積となると旧東川村が5,000ha少々、馬路村が12,000ha足らずと大きく異なってくる。馬路村には2つの営林署が存在するが旧東川村には営林署そのものがなかった。馬路村の国有林事業は長い間黒字を計上し、雇用の場としても村を支え続けた。2004(平成16)年に安芸森林管理署に統合され馬路村からも営林署が撤退したが、この違いは大きかっただろう。産業基盤のあるうちに柚子の導入や温泉施設の建設で地域内雇用を作り出した馬路村に対し、安芸市合併直後こそ地域振興策が講じられたもののその後は中心部への振興策がほとんどとなり、周辺部の旧東川村は打ち棄てられたに等しい状態であった。結果としては前述のように山間部の旧畑山村・旧東川村は壊滅的な状況に陥っている。典型的な例としては合併時に旧町村単位で設置された支所がわずか5年で連絡所に格下げされ、さらにその連絡所すら合併20年後には全廃されている。一応農協支所が部分的に事務代行するという事であったがJA安芸の発足により支所統廃合が進んだため旧村単位で実際には行政窓口が無くなった地域がある。また未だに上水道も整備されておらず、付け加えるならば普通加入者電話の直通利用が1980(昭和55)年までできなかった事がある。行政に直接的な責任があるわけではないが、当時の電電公社に対して何も働き掛けをしなかったのも事実である。また合併の条件として国有林事業所の存続があったがこれも国策として次々と撤退が決まり、地域の産業拠点は皆無になった。上記の問題点はほぼすべて旧畑山村と旧東川村にあてはまる、これでは無策と言われるものやむを得ないのではないだろうか。
こういった点は平成の合併でも懸念材料の一つとなり、安芸市との合併に難色を示す町村は少なくなかった。当初2002(平成14)年夏に高知県東部全域(東洋町・室戸市・田野町・奈半利町・北川村・馬路村・安田町・安芸市・芸西村)で始まった合併協議は早くから崩壊してしまった。まず合併協議会発足時点で室戸市が外される形となった。次いで香南6町村とのかけもちだった芸西村が離脱、これは地域的な問題もありやむを得なかった。続いて2003(平成15)年5月まで
に安芸市・馬路村・東洋町が離脱、わずか半年で4町村になってしまった。馬路村は柚子で築いた馬路村ブランドの消滅に強い危機感を持っており、市町村合併に先立って行われた形のJA広域合併にも参加しなかった。加えて昭和
の合併以降に隣接する旧畑山村・旧東川村や北川村北部が著しく衰退する様を半世紀にわたって見てきた事もあるだろう。特に旧畑山村・旧東川村とは昭和の合併時に一時はともに合併して安芸市にするか3村での独立の予定であった。安芸市街地からの大型直通林道新設など甘い誘いもあったがこの時も馬路村では賛否両論の激論の上、最終的に合併を見送っている。正直現状を見る限りでは馬路村の自立は正解であっただろう。作者の出身地は池川町(現仁淀川町)であり、ここも県内どころか全国屈指の高齢化を誇る過疎の山村である。その作者ですら旧東川村方面を訪れた際にはその衰退ぶりに驚いた、それほどの惨状であった。
なお最終的に残りの4町村でまとまるかに思われた合併は、2004(平成16)年6月に田野町のアンケートで反対多数となり、田野町が離脱。その後残っ
た3町村で合併協議を進め、調印までこぎつけたものの最終的には北川村の住民アンケートで否決されたことが原因で合併には至らなかった。結果高知県東部での合併は最終的にすべて破綻している。
2011(H23)年7月のアナログテレビ波停止の際にも旧東川村だった別役地区は現状の共聴施設ではデジタル波受信ができなくなった。新規設置と維持管理費に多額の費用がかさむことがわかったもののわずか5世帯8人となった地区にはその負担が重荷となっている。緊急措置としてスクランブルを解除してキー局の衛星放送を受信しているが、地元の情報は一切流れない状態である。