東洋町 【廃校小学校】川口 生見(分) 名留川
【廃校中学校】川口
【廃校県立高校】室戸高校野根(分) 室戸高校甲浦(分)
【休校小中学校】なし 小3中1高2合計6校
【現存小学校】甲浦 野根
【現存中学校】甲浦 野根 小2中2合計4校
学校統廃合の流れ
1972(昭和47)年 室戸高校野根分校を廃校
1979(昭和54)年 3月 川口小中学校を野根小中学校に統合廃校
1990(平成 2)年 甲浦小学校生見分校を本校に統合
1999(平成11)年 室戸高校甲浦分校を廃校
2005(平成17)年 3月 名留川小学校休校 のち2007年度で廃校
Thanks 東洋町教育委員会 室戸高校
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東洋町は1959(昭和34)年に甲浦町と野根町が合併して誕生している。合併直後に8,000人近くいた人口は3,386人に減少している。高知県でもっとも東部にあり、県庁所在地の高知から車で3時間少々はかかる。鉄道は徳島県側に通じており、商圏その他も完全に徳島県側に入っている。以前は大阪(当初は神戸)とのフェリー便もあったが数年前に経営破綻した。生見海岸はサーフィンのメッカとして有名で、世界選手権も開催されている。
先の核廃棄物最終貯蔵施設誘致問題で一躍有名になってしまったが、この問題でも明らかになったように旧甲浦町と旧野根町の対立は合併以来根深いものがある。中でも今回以上の大きな騒動になったのが庁舎問題で、合併時に結局庁舎問題に決着がつかず、さりとて合併を中止するわけにもいかない。苦肉の策として「庁舎の位置は2年交代として、4年後に決定する」として発足した。4年後にも庁舎問題は解決せず、2年ごとに野根と甲浦を引っ越しするという効率化とは無縁の行事が続いた。ところが合併10年を迎えた1969(昭和44)年、町議選で条例改正に必要な3分の2の議員定数を確保した野根側が初議会において「昭和45年野根への庁舎設置」を強行議決、甲浦はこれに猛反発、この議決を巡って町は2分する騒ぎになる。当時を知る人に聞いてみたのだが野根側の議員増になったのがすべての原因だったらしいのだがこれについては長年の深慮遠謀の結果という事は全くなく、たまたまだったというのが笑えるがそれでも即座に行動するあたりが根の深さを物語っているように思える。結局この議決は今回以上の大騒ぎとなり行政機能は完全にマヒ、町議全員のリコール・甲浦分町運動となって火を噴き、事態は町内での収拾が困難になる。高知県が仲介に入って説得し、ようやく撤回、議会が自主解散した。このあたりの構図は今回の核施設問題ととまったく同じで、誘致賛成派=田島前町長=野根vs誘致反対派=甲浦である。ちなみに庁舎問題はその後も延々と引っ越しを続けていたが両庁舎とも老朽化。1985(昭和60)
年、合併26 年目にしてようやく中間地点の生見に完成している。
学校の統廃合はやはり山間部から行われている。生見分校の廃校は道路状況の改善による通学環境の変化も大きいが、その他は過疎化が原因である。生徒数は少ないながらも半世紀少々存続していた室戸高校甲浦分校の廃校によって町内の高校進学先は一気に徳島県側に偏った。室戸高校本校までは遠すぎる上にバスの便も悪く、実際には通学は無理である。商圏その他の住民同士の交流も完全に徳島県南部と同一である。このため平成の合併では一時的に徳島県側への越境合併も討議されている。
この地域の平成の合併では紆余曲折と波乱に終始することとなった。まず最初2002(平成14)年夏に東洋町・田野町・安田町・北川村・馬路村・安芸市・芸西村との8町村で協議を開始した。室戸市のみを外したうえに広域すぎる協議ではないかという懸念があったがまず香南6町村とのかけもちだった芸西村が離脱、これは地域的な問題もありやむを得なかった。続いて2003年5月までに安芸市・馬路村・東洋町が離脱、わずか半年で4町村になってしまった。実質的に協議から外された東洋町からは協議継続の要請があったが拒否する形になっている。残りの4町村でまとまるかに思われたが、2004(平成16)年6月に田野町のアンケートで反対多数となり、田野町が離脱。その後残った3町村で合併協議を進め、調印までこぎつけたものの最終的には北川村の住民アンケートで否決されたことが原因で合併には至らなかった。
この合併破綻は少々予想外という意見も少なくない。特に田野町・安田町・奈半利町・馬路村・北川村は広域行政組合を運営し、消防やゴミ・し尿処理などを行っている。経済的にも馬路・北川で切り出した木材を奈半利・田野・安田で製材加工し、両村への県道・国道はいずれも奈半利川か安田川沿いに通じるなど様々な面で結びつきが強い。この面では高吾北5ヶ町村(佐川町・越知町・池川町・仁淀村・吾川村)と似通った部分があり、当初はこの2地区は順調に合併が進む思われていた。ところがいずれも破綻し、広域行政と合併は別物という流れが強くなる形となった。一方的に財政を締め付けて合併を促しながら、最終的には傍観者であろうとする国政はもう少し市町村の意見を反映した政策をとるべきである。