名留川小学校(東洋町)  なるかわ    へき地級1(1978)
  2005(平成17)年に休校、2年後の2007(平成19)年廃校
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53) 1999(H11) 2004(H16)
児童数 92  71  28   10  2  1



 東洋町野根から県道101号船津野根線を野根川沿いに4kmほど遡ると左手に集落が見えてくる、そこが名留川である。かつては県道が集落の中を抜けていたが、近年バイパス工事が完了し北側の野根川沿いに抜けるようになった。このため名留川集落の大部分は山陰に隠れて県道からは見えなくなった、名留川小学校も同様である。



 訪問は2010(平成22年)5月、県道101号線を走るのは名留川より上流にある川口小中学校を訪問して以来1年ぶりとなる。名留川小学校の歴史は野根小学校分教場として設置された1882(明治15)年から始まる。5年後に一時廃校となったがさらに5年後の1892(明治25)年に再設置された記録が残っている。その後1926(大正15)年に名留川尋常小学校として独立、戦後の教育改革や甲浦町との合併による東洋町立への改称を経て2005(平成17)年にその歴史を閉じた。5年の廃校時期を除くと118年の歴史となる。当初は休校となっていたが2年後に廃校手続きがとられている。
 廃校となっているが県内でも数少なくなった木造校舎はそのままで写真左奥の給食調理場もそのまま残っている。住民から聞いた話だが、大阪に出稼ぎに出て建築業で成功した名留川出身者が何人もいたそうである。1960年代後半から1980年代後半にかけてはその人たちの誘いもあってこの周辺からかなりの人が大阪に出て行った。それまでは林業を中心に細々と暮らしていたが、圧倒的に稼ぎが違うので次々に人が出て行ったそうである。。安土桃山時代(織豊期)の1589(天正17)年に作られた野禰村地検帳には成川村での記載がある。江戸時代に入ると成川・名留川両方での記載があり、明治以降は名留川で定着したもよう。
 訪問時点で旧校区内には児童2名と生徒2名が住んでおり、野根小中学校へ通っている。高校進学となると通学は不可能なのでいずれにしろ家を離れる事になる。

 訪問直後に解体工事が始まっていたらしく、2010年度いっぱいで更地になっている。訪問したのは全くの偶然だが、取り壊される前の校舎全景を撮ることができたのは幸いであった。