川口小中学校(東洋町) かわぐち へき地級2(1978)
1974(昭和54)年に野根中学校と名留川小学校にそれぞれ統合
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | 1978(S53) | |
児童数 | 62 | 85 | 39 | |
生徒数 | 33 | 35 | 4 |
川口小中学校跡のある川口地区へは東洋町野根から野根川沿いに県道101号船津野根線を約10kmほど遡る。集落右手、標高60m地点に平屋の学校跡が見えてくる、道路拡張の際に校庭と校舎が切り取られて往事よりは狭くなったらしい。小中学校併設であったがともに1974(昭和54)年に廃校となった。手元にある「高知県教職員名簿(昭和53年度=1978)」では川口小学校が掲載されておらず、実質的にはこれ以前に休校となっていた可能性が高い。また川口中学校も昭和34(1959)年発行の「全国学校名鑑」に記載されていないので設立時期が不明である(ただしこの年代の学校名鑑には曖昧な部分もあるので完全に断定はできない)。
訪問は2009(平成21年)5月、連休期間とあって校庭はキャンプ場代わりに使われていた。川口小中学校の校区は野根川上流から順に真砂瀬(まなごせ)・衣川・川口・高瀬・大斗、川口から支流に入った日増谷の6集落。ピーク時の1957(昭和32)年には72人の児童と40人の生徒が通学していた。もっとも地元の住民によるとその数年前はもっと多かったらしいが正式な記録が確認できなかった。校区内住民も当時は300人を越えていたという。訪問時点で児童生徒数はゼロ、住民も50名少々となっている。
地区内では主に自家消費用の米麦類を自宅周辺で作り、生活の糧は炭焼きと林業で補う形になっていた。今でも備長炭を焼く人が細々と炭焼きを続けているが林業のほうは早々と見切りをつけられてしまった。高度成長期前後から関西地方で建築業に従事する人が多くなり、出身者を頼ったり誘われたりでかなりの人が地区を出て行った。学校跡のすぐ横には土佐の名水に選ばれた野根谷の水があり、訪問時にもポリタンク持参で水を汲んでいる方が見られた。野根川は鮎で名高く、シーズン中には関西地方からの釣り客が絶えない。甲浦と神戸を結んでいた(最後は大阪発に変更されていた)フェリーがあった頃から比べると減ったそうではある。
現存する学校跡は戦後の中学校誕生時に移転新築されたものでそれまでは200mほど上流の山手に建てられていたそうである。今は杉林となっているがその左手には官舎が最近まで残っていたそうだ。
以前の学校跡付近