旧十和村 【廃校小学校】浦越 十和(久保川) 大道 古城(十川第二) 広井(十川第三・井崎)
【廃校中学校】大道
【休校小中学校】昭和(2015〜) 小5中2合計7校
【現存小学校】十川 昭和
【現存中学校】十川 小2中1合計3校
学校統廃合の流れ
1989(平成1)年 浦越小学校を昭和小学校へ統合
1991(平成3)年 大道中学校を十川中学校へ統合
2003(平成15)年 十和・大道・古城の3小学校を十川小学校へ統合
2005(平成17)年 大道小学校廃校
2007(平成19)年 広井小学校休校
2012(平成24)年 広井小学校廃校
2015(平成27)年 4月から昭和中学校休校(十川中学校に統合)
Thanks 十和村教育委員会
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十和村は最後の清流として有名な四万十川の中流域に位置する山村である。1957(昭和32)年8月に旧昭和村と旧十川村が合併して誕生した。さらに遡ると旧昭和村は1889(明治22)年の町村制の実施で黒川など11村が合併し、西上山村となったが、1928(昭和3)年の御大典当日に昭和村と改称している。旧十川村は1872(明治5)年、大野村など7カ村で大野組合となったが、町村制の施行で十川村に改称した。このため古い資料を調べていると旧昭和村の記述が出てこないのだが、上記の理由で納得がいく。合併時の人口は7,600人、今は3,500人足らずで児童生徒は1,600人弱から300人少々に減っている。
平成の合併では当初西土佐村・大正町との合併協議を行い、この3町村での合併が想定されていた。二転三転の末に窪川町・大正町との合併協議が進み、2006(平成18)年の3月に「四万十町」として対等合併することになっている。昭和の大合併では「県庁所在地に近い川下が生き残る」という結果が出ているが、四万十川中流域のこの地域は相反する条件である。川上の窪川町は県庁にもっとも近く人口も多い、いっぽう川下の十和村は県庁からもっとも遠く人口も少ない。
林業不振のあとは大正町とともに全国有数の椎茸の産地として名をはせていたが、輸入品との価格競争に押されて下火となった。国道381号線は改良が進み、窪川町まで完全2車線化が完了した。また1979(昭和49)年には西土佐村江川崎〜窪川間の鉄道が開通し、既に20年前に開通していた江川崎〜北宇和島間とあわせて予土線全通となった。もともと軽便鉄道から発展した江川崎〜北宇和島間と違って江川崎〜窪川間は高規格設計となっており、直線的なルートを取っている。しかし交通事情の改善は過疎化に拍車をかけたのみというのはここでも変わらない。
2007年5月に四万十町教育委員会が「四万十町学校適正規模配置案」をとりまとめ、その後の経緯が注目されていたが2008年9月に統合計画が公表された。それによると旧十和村内の統廃合は現状の小2中2から小2中1に減少する。
★旧十川村 【休廃校小学校】古城(十川第二) 大道 十和(久保川) 広井(十川第三・井崎)
【休廃校中学校】
旧十川村は現十和村の西半分を占める。改良が進んだ国道381号線は十川の先の西土佐村境(現在は四万十市)付近では昔のままの狭い道である。昭和の大合併時に小学校名が改称されている。そのうち井崎小学校は改称後に移転したので広井小学校となっている。四万十川本流から入った支流域の小中学校が統合されていたが、本流にある広井小学校も統合された。
★旧昭和村 【休廃校小学校】浦越 十和 大道
【休廃校中学校】大道
旧昭和村は現十和村の東半分になり、昭和天皇即位を期に昭和村となるまでは西上山村となっていた。藩政時代から上山郷と呼ばれており、東上山村(これも大正天皇即位を期に大正村=のち大正町に改称)との結びつきが強かった。明治以降は東西にそれぞれ村と名称をつけていたが、昭和の大合併では昭和村が十川村と合併して十和村となった。今回平成の合併で窪川町・大正町・十和村の村が合併して四万十町となったが、これで藩政時代から久しぶりに上山郷が一つの行政区画になったわけである。