旧中村市  【廃校小学校】伊才原(分)  鴨川  名鹿(分)  
         【廃校中学校】勝間  明星  鴨川  具同 八束
        【廃校高校】幡多公民高等学校
        【休校小中学校】勝間小(2002〜) 竹屋敷小常六小・片魚小・竹屋敷中・片魚中(2003〜)  田野川小(2013〜)  川登小・大川筋中・蕨岡中・後川中・中筋中・東中筋中(2021〜)
                小9中11高1合計21校 
        【現存小学校】中筋  大用  中村南  具同  東中筋  東山  下田  八束  中村  竹島  蕨岡  利岡
         【現存中学校】大用  中村  中村西  下田  
        【現存県立中】中村
        【現存県立高校】中村  幡多農業  小12中4高2合計18校


学校統廃合の流れ
1954(昭和29)年 旧富山村内の小中学校を改称
            「小学校」富山第一→大用 富山第二→竹屋敷 富山第三→片魚 富山第四→常六
            「中学校」富山中央→大用 富山東部→片魚 富山西部→竹屋敷
1955(昭和30)年 幡多公民高等学校廃校
1958(昭和33)年 具同中学校を中村中学校に統合
1966(昭和41)年 明星中学校・勝間中学校を新設の大川筋中学校に統合
1971(昭和46)年 名鹿分校を八束小学校に統合
1974(昭和49)年 伊才原分校を蕨岡小学校に統合
1978(昭和53)年 鴨川小学校を利岡小学校に統合
            鴨川中学校を利岡中学校に統合
2002(平成14)年 勝間小学校を川登小学校に統合
            県立中村中学校開校
2003(平成15)年 常六小学校・片魚小学校を大用小学校に統合
            片魚中学校を大用中学校に統合
            竹屋敷小中学校をそれぞれ蕨岡小学校・蕨岡中学校に統合
2013(平成25)年 田野川小学校休校
2021(令和3)年  川登小・大川筋中・蕨岡中・後川中・中筋中・東中筋中が休校
           八束中学校廃校

小中学校再編計画(正式決定ではなく2018年9月を目処に現在策定中)
 1:中村小学校←大用・蕨岡・利岡・川登 (休校 竹屋敷・片魚・常六・勝間・田野川)
 2:東山小学校←竹島・下田
 3:中村南小学校←八束
 4:具同小学校←中筋・東中筋
 5:中村中学校←大用・蕨岡・下田・大川筋・後川 (休校 竹屋敷・片魚)
 6:中村西中学校←中筋・東中筋・八束
参考文献 中村市史(昭和41年/昭和59年)
Thaks 中村市教育委員会

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 中村市は1954(昭和29)3月3日に中村町・下田町・東山村・蕨岡村・富山村・大川筋村・後川村・八束村・中筋村・東中筋村・具同村の11町村が合併して誕生している。これは高知県内で行われた昭和の大合併では南国市に次ぐ規模の大きさである。市庁舎は一番の中心地である中村町に設置されている。
 この地域の基礎が築かれたのは1475(文明7)年に前関白の一条教房氏が下向した時からである。応仁の乱の混乱を避けて所領であった土佐幡多荘へ移った一条教房氏はその後も当地にとどまり、その次男房家は公家としての勢力を保ったまま中村御所を中心に京都を模した町を作り上げ、戦国大名となっていた。その後長宗我部元親との戦乱を経て一条氏の所在は不明となったが、残された町並みはそのまま幡多地方の中心となって今日に至っている。
 学校の統廃合は合併時の取り決めもあったそうで人口の減少に比べると緩やかに行われている。旧町村に学校を残すという取り決めは県内でも珍しくなく、現在までも地元からの要望がない限りはギリギリまで存続させるケースが多い。中村市の場合も同様であったが、山間部での過疎化は著しく学校を存続させようにも肝心の児童生徒が皆無になってしまった。そのため近年になって一気に休校数が増加している。また戦後7年間の短い期間ながら幡多公民高等学校という私立の準定時制高校があった。2018年9月を目処に新たな小中学校再編計画を検討中である。

 四万十川で名高い地域であるが、高知市から2時間半かかる不便さは未だ解消されていない。以前には西南空港の開設も検討されたが結局採算性の問題で着工までには至らなかった。高規格道路が延伸しつつあるものの2017年時点で四万十町(旧窪川町)までで、四万十市街地までの全通はまだまだ先の話である。

 平成の合併では当初の高知県試案では幡多地域広域合併案(佐賀町・大方町・西土佐村・中村市・宿毛市・三原村・大月町・土佐清水市)もしくは東西(佐賀町・大方町・西土佐村・中村市と宿毛市・三原村・大月町・土佐清水市とのグループ)2分割案が出ていた。広域合併案はさすがに協議内容が複雑になりすぎて時間的な余裕がないということで流れた。西土佐村は地理的に結びつきの強い十和村・大正町との合併協議を並行するという選択肢も残していたが、ひとまずは東西での合併協議が進んでいた。ところが東グループは庁舎位置を巡って紛糾し、佐賀町と大方町の住民投票によって合併否決となり、この2町の離脱が決まった。結果的に東グループは残った中村市と西土佐町が四万十市になり佐賀町と大方町も黒潮町として発足することになった。いっぽう西グループは土佐清水市の合併協議参加を巡って対立し、三原村が離脱した。残った宿毛市と大月町で合併協議が進められ、合併協定に調印したものの議員定数と選挙区割りで紛糾し大月町議会の否決により白紙となった。