八束小学校名鹿分校(四万十市=旧中村市) なしし
旧八束村立八束小学校分校として開設、合併で中村市立に改称後、1971(S46)年に本校統合
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | |
在籍児童数 | 34 | 25 | 14 |
名鹿分校跡へは中村市街地から国道321号線を南進し、途中右手に統合された八束小学校を見ながら進む。間崎信号にて県道343号線に入り5kmほど進んだ高台に名鹿分校跡がある。県道から若干離れているが、一体は既に払い下げが済んでおり個人所有地となっているので詳細は省く。
訪問したのは2008(H20)年8月、所有者の家族がいたので写真撮影とWeb掲載について許可をいただく。記念碑などは一切残っていないそうであるが、教員住宅がそのまま倉庫に使われていて手つかずのままだと教えてくれた。校舎は北方向に展望の開けた高台にあったそうで、たしかに四万十川河口から北が一望できる眺めであった。
校舎のあったあたり
最盛時には30名を越えるほどの児童がいたもよう、現在は3名。分校は1949(S24)年開設され、4年生までが分校通学となっていた。その後1971(S46)年3月に本校統合となった。統合理由は過疎少子化・老朽化によるもので道路改良が進んで通学に全く支障がなくなったことから特に地元から反対意見はなかったそうである。主な産業は半農半漁といえる兼業体制だったそうだ。名鹿海岸にはキャンプ場ができており、ペンションも開業している。ただ海水浴には波が荒く、もっぱらサーフィンでの呼び込みを図っているそうである。県道も間崎から名鹿海岸までは2車線整備が終了しており、走りやすくなっている。
名鹿は鎌倉時代の1304(嘉元2)年に具同村津倉淵の南限として小ナシシとして登場し、室町時代の1448(文安4)年の一条家御教書にも名師子として領地南限という記載がある。中世織豊期には幡多荘の一村として記載があるが、菜ユ之村という難解な漢字であった。戦国時代から一条氏配下にあり、直轄地から後に後見人であった立石氏の所領となった。立石氏は一条氏滅亡後はそのまま長宗我部氏の家臣となったが、徳川幕府となって山内氏土佐入国の際に肥後に退いたためその後は土佐藩領地となって布・立石地区とあわせて郷村扱いされていた。1871(明治4)年に高知県名鹿村となり、1889(明治22)年に八束村の大字となった。その後の町村合併で1954(S29)年に中村市の大字となり現在に至っている。
教員住宅跡