旧本川村  【廃校小学校】桑瀬  殿御舎  寺川    
        【廃校中学校】長沢  越裏門  殿御舎 
        【休校小中学校】本川小・越裏門小(2002〜) 小5中3合計8校
        【現存小学校】長沢
        【現存中学校】本川  小1中1合計2校

学校統廃合の歴史
1968(昭和42)年 桑瀬小学校を本川小学校に統合
1973(昭和48)年 長沢・越裏門・殿御舎の3中学校を新設の本川中学校に統合
            殿御舎小学校を越裏門小学校に統合
1978(昭和53)年 寺川小学校を越裏門小学校に統合
2002(平成14)年 越裏門小学校・本川小学校を長沢小学校に統合

 旧本川村は1889(明治22)年に市町村制が実施されるまで、大川村とともに本川郷と称されていた。このため平成の合併において当初高知県が提示した案では、大川村・土佐町・本山町・大豊町とともに吉野川水系で一自治体が考えられていた。しかし実際には国道194号線の全面改良を通じて吾北村や伊野町との結びつきが強くなっており、最終的にはこのグループとの合併を選択し、いの町となった。
 本川郷の発祥については種々の歴史的な伝説から、1185(文治元)年に案徳天皇を奉じた平家の落人が土着したのが始まりであると伝えられてきた。近年になって寺川の鷹ノ巣山遺跡、越裏門の氷室番所跡の発掘調査により、弥生中期に山の民である狩猟民によって既に定住者がいたらしい事が明らかになった。前述の平家伝説によりさらに250年以前の承平年間(931〜938)、紀貫之が土佐の国司時代既に土着民が生活していたと考えられる。この地域には本川神楽が伝承されており、国の無形民俗文化財に指定されている。本川神楽の伝承は当初九州から伝わったとされていたが、本川村史編纂の調査において1984(昭和59)年に発見された「高橋鶴吉旧蔵資料」等によって室町時代の1523(大永3)年に伊勢山田の佐伯氏高橋四郎左衛門盛正によって伝えられたことが判明した。高橋一族はこの地の村中安全・無病息災・悪魔退散などを祈祷して奉納している。このほかにも四国八十八カ所の存在を裏付ける鰐口や仏像、さらにそれを奉納した地蔵堂も現存しており、当時から本川村には確固たる宗教文化が根付いていたことが証明されている。越裏門には18世紀中頃に建てられたと推定される山中家住宅があり、山間部の農家住宅としてこれも国から建造物文化財の指定を受けている。
 1955(昭和30)年に4千人を超えていた人口は急激に減少し、いの町合併時には700人少々まで落ち込んでいる。1980年代に国道194号線の完全改良が竣工し、1999(平成11)年には新寒風山トンネルが開通した。このことで愛媛県西条市までの所要時間は1時間足らずとなり、この地域の商圏は高知市ではなく西条市に属することになった。
 かつて村内には旧吾北村小川から延びた森林軌道が本線が長沢まで、支線が長沢経由で越裏門までと大森川経由で宮谷(殿御舎)まで延びていた。寺川の子持権現には日本鉱業(株)所有の鉱山があり(日本鉱業は共同石油との合併を経て現在はジャパンエナジー)、宮谷(殿御舎)と長沢には営林署の事業所もあった。いずれも現在は縮小閉鎖されかつての面影はなく、宮谷(殿御舎)からは人家も絶え森林軌道跡は朽ち果てていくのみである。