殿御舎小中学校(いの町=旧本川村)  とのこや
  1973(昭和48)年に越裏門小学校・本川中学校に統合
    

年 度 1962(S37) 1965(S40) 1970(S45) 1972(S47) 1973(S48)
児童(小学校)数 36 29 18 4 閉校
生徒(中学校)数 10 7 8 6 閉校


 学校跡付近

 訪問は2006(平成18)年7月。殿御舎という字および地名は元々なかったらしく、過去の地図で確認しても宮谷という地名しか見あたらないが、ここに殿御舎小中学校や営林署事業所および官舎等の関連施設住居などがあった。この宮谷地区へは5ルートがあるが、いずれも未舗装の林道ばかりである。もっとも宮谷地区に現在住民はいないので訪問者はもっぱら林業関係者・四国電力関係者かオフロード愛好者がほとんどであり、格別の問題はないらしい。さて5ルートについてだが、1:越裏門から(伊留谷林道=2014/2現在通行止め)2:長沢休場から(林道名不明)3:R194奈路から(奥南川林道)4:旧吾北村川又から大野越え(東谷大森川林道)5:旧池川町安居から(弘沢林道)になる。前述のように未舗装の林道ばかり、比較的3は乗用車でも大丈夫だが木材の搬出状況や天候によっては厳しいだろう。特に冬季は四駆・スタッドレス&チェーンでないとどのルートも痛い目にあう可能性が高いことは間違いない。
 今回は1の越裏門から伊留谷林道を走った。前述の1ルートのうち、3の奥南川林道が一番古い車道であるがこれ以前には森林軌道が開設されていた。吾北村(現いの町)高岩を起点として長沢経由で竹ノ川までを本線とする長沢線は程ヶ峠のすぐ北側で奥南川への支線と本線が分岐していた。支線とはいえ、手箱山直下までの距離を稼ぐ奥南川線は間に殿御舎で事業所を置くなど規模の大きな部類だったらしい。後述する大森ダムの完成で本線より早く廃線となった奥南川線であるが、ダム手前まではほぼ林道に転用されている。その先もダム工事用道路を林道に転用しており、1950年代の後半からは殿御舎までの奥南川林道が完成していた。
 旧本川村長沢から吉野川沿いに県道石鎚公園線を7kmほど遡り、越裏門小中学校の横を伊留谷林道へ入る。ほどなくダートが始まり、荒れた林道山越えをして休場からの林道と合流し30分ほどで大森川ダム湖流入口に着く。ここでダム湖沿いに遡った奥南川林道と合流するが、さらに上流へ少々走る。林道右手に草に覆われた斜めに上がる道跡がかすかに見え、藪をかき分け30mほど進むと割と大きな広場跡に出る。1968(S43)年国土地理院発行1:50,000地形図「筒上山」によると学校はこの広場の東端にあり、即ち今自分が立っているあたりとなる。
 
林道脇から坂道を進む

 ピーク時の1962(S37)年には小学校児童36名中学校生徒10名の合計46名が在籍していた。廃校時は全員がここに設置されていた奥南川事業所の関係者であり、事業所が廃止されて人が引き上げた後に廃校になったのはやむを得ない流れだっただろう。元々は大森川沿いにも住民がいたらしいが1959(S34)年に完成した大森川ダムの建設に伴って移転している。学校設立の経緯に関しても国が敷地建物を提供して造った全国でも極めて珍しい事例であり、その後も高知営林局が国有林野事業の労務対策の一環として殿御舎小中学校の維持経費を一部負担していたという記録が高知営林局に残っている。また同様に営林局員の福祉厚生対策として直営の医務室が設置されていた。この直営医務室は営林局本局(高知市)と魚梁瀬営林局にしか設置されていなかったが、一事業所である奥南川に設置されたのは相応のへき地であることが推察される。
 前述の地形図では地区内の住居施設等は学校跡から上流1kmほどまでの間におおむね4ヶ所に分散していたらしい。2009(H21)年に再訪問したが、これは学校の完全な所在地跡が確認できたからである。住民撤退時にはすべての建物を撤収したらしく、藪をかき分けて痕跡を探してみたが古びた遊具(おそらく滑り台かブランコ)らしき残骸があるだけであった。1968(S43)年時点で車道は奥南川林道のみ、林道開設以前は越裏門から手箱谷経由で2kmほど西進し、標高1,035m付近から南下して手箱山西稜線部標高1,350mの鞍部を越えて宮谷へと下るルートが主に使われていた。殿御舎小中学校へ赴任の決まった教職員は長沢で辞令をもらったあと、車道完成まではこのルートを使っていた。その他のルートとしては安居銅山からの銅山越え、若山からの山越えルートがあったらしい。池川町(現仁淀川町)安居渓谷の北側標高750m付近にあった若山集落はおよそ30年ほど前に無人廃村となっているが、車道が通じたのは平成になってからである。安居川に下ってからさらに池川の町に出るよりは殿御舎のほうが遙かに近く、日常の買い物だけでなく林業が主だったことで雇用面でも殿御舎に依存した形になっていたそうである。殿御舎から営林事業所が撤退し、住民もいなくなっため若山からも人が去って無人となっている。若山集落も何度か訪問する機会があったのだが(廃集落になるまで)車道もないこの場所に8軒の人家があり、自家発電機を置いて(当然燃料を運ぶ必要もある)生活を営んでいたことに大きな衝撃を受ける。

錆び付いた遊具らしき残骸

 大森川ダムは四国電力が管理する電源開発専用ダムで、中空重力方式(要するに内部に大きな空洞がある)という珍しいダムである。この方式は四国では穴内ダム(土佐山田町)とここだけである。本川村や吾北村の古老によると大森川ダムに沈んだ場所は大森川渓谷と呼ばれ、美しい景観であったそうだ。ダム湖流入口から上流部川沿いにわずかながらその面影は残っている。終戦直後から伐採が始まった天然林は皆伐され、かつてツキノワグマもいた美林はほぼ壊滅している。今は辺り一面杉檜が広がるばかりである。

 1960年頃の殿御舎 (高知市民図書館 寺田文庫より)

 1960年頃の殿御舎 (高知市民図書館 寺田文庫より)