寺川小学校(いの町=旧本川村)  てらかわ   へき地級3(1978)
  1981(昭和56)年に越裏門小学校に統合、その後越裏門小学校も2002(平成14)年に長沢小学校に統合
    

年 度 1962(S37) 1965(S40) 1970(S45) 1972(S47) 1978(S53) 1981(S56)
児童(小学校)数 23 22 17 14 7 2(閉校時)


 

 寺川地区は旧本川村長沢から吉野川沿いに県道石鎚公園線を10kmほど遡り、さらに急勾配の山道を駆け上がった場所になる。「寺川老人憩いの家」が建てられていて、手持ちのハンディGPSでは標高880mを記録している。細々と自家消費用の農業をしながら林業で現金収入を得ていたが、営林署の事業所引き上げや機械導入による作業効率化などで生活が成り立たなくなった。他にも白猪谷に日本鉱業(現JX金属)の子持鉱山があり、こちらは1960年代後半まで操業していたらしい。今でもトロッコのレール跡やズリ跡が残っている。
 寺川郷談などの古文書や明治以降の記録では地区内の人口はおおむね150人前後で推移していたらしい。1960年代の高度成長とともに人口は激減し、現在は約20人ほど。児童数もピーク時には20名を超えていたが廃校時には4名となった。その後しばらく児童生徒数はゼロであったが数年前にIターンで寺川に引っ越した家族がおり、現在は2名の児童生徒がいる。元々中学校になると越裏門中学校に通っていたが、1973(昭和48)年に本川中学校に統合され併設の寄宿舎に入って週末だけの帰宅となった。現在は越裏門小学校も休校となり、スクールバスでの通学となっている。
 石鎚山系を西に望むこの地区はかつて伊予藩からの密入国による切り出しが絶えない美林であった。戦後になって高岩〜小川(ともに旧吾北村)〜大森〜長沢〜越裏門〜寺川というルートで森林鉄道が敷設され、豊富にあった地区内の原生林は次々と切り出され、跡地には杉檜が植林された。その後森林鉄道は廃棄され、自動車に主力が移った頃には既に林業の崩壊が始まりつつあった。働き手は都会へ流出せざるを得ず、後に残るは老人ばかりとなった。残る老人も介護保険の導入後は年金だけではマイナスになり、都会へ出た息子達の送金に頼るかその地へ赴くしかなくなりあっという間に人が減った。

 片隅に記念碑が残っている、現状を見ればここに小学校があった事自体が不思議に思える過疎化である。