旧夜須町 【廃校小学校】羽尾 仲木屋(分) 国光(分)
【廃校中学校】なし
【休校小中学校】なし 小3中0合計3校
【現存小学校】夜須
【現存中学校】夜須 小1中1合計2校
学校統廃合の流れ
1961(昭和36)年 仲木屋分校を羽尾小学校に統合
1972(昭和47)年 国光分校を夜須小学校に統合
1977(昭和52)年 3月 羽尾小学校を夜須小学校に統合
参考文献 夜須町史
Thanks 夜須町教育委員会
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夜須町は1955(昭和30)年に旧夜須町と東川村の14字のうち4字(細川・羽尾・沢谷・仲木屋)を編入して誕生した。東川村はこの時3分割されて夜須町のほか香我美町・芸西村に編入された。このため中心地である坪井地区から北西方向の夜須川沿いに細長く伸びる形となっている。一般的にはヤシィパーク(旧手結海水浴場)を中心とした海の町というイメージが強いが、かなりの部分を中山間地域が占めている。当然の事ながらこの中山間地域では過疎化が著しい。特に旧東川村では住民が激減しており、仲木屋・沢谷・上倉は集落そのものが消滅している。いっぽうの坪井地区を中心とした海岸部では高知県東部の基幹道路である国道55号線とくろしお鉄道が通っており、海水浴やマリンスポーツでの人気も高い。沖合には珊瑚の群落もあるが、東部の住吉海岸でも珊瑚を身近に見ることができる。
下記に説明した香南の大合併は結局破綻したが、半世紀を経て再び合併案が浮上し、5町村(野市町・赤岡町・夜須町・香我美町・吉川村)が対等合併することになり2006(平成18)年3月1日に「香南市」発足となった。
香南の大合併
元々この地域では昭和の大合併において高知県主導で夜須町・香我美町・野市町・赤岡町・吉川村の5ヶ町村を香南市としてまとめるという計画が持ち上がった。香南の大合併と呼ばれ、まさに鳴り物入りで進められた。高知県はこの合併案に対し「@高知県知事は内閣総理大臣と協議して合併勧告を行うA知事の勧告後90日以内に合併議決をしない場合、知事は内閣総理大臣からの勧告を求めるBそれでも合併しない場合、国・県の財政支援を打ち切る」という強硬策を押し立ててきた。よく読めばこの策はもうメチャクチャである、そこには住民の意思というものは存在しない。
しかしいきなりこういう事を言われてはいそうですかと従うのは無理で、1957(昭和32)年にまず@を発動。急遽合併協議会が立ち上げられたが、本庁舎を野市町に決定するのが精一杯。焦った(と記録にある)高知県は1958(昭和33)年9月にAを発動、夜須町・香我美町・赤岡町・吉川村は合併やむなしで態度を決めた。ところが野市町が町議会においてこの合併案を敢然と拒否、当時の記録では明け方まで議会が紛糾したが結局単独自立を採択したとある。野市町はこの時点でBの発動を覚悟していたようだが、他の町村にとってはまさに寝耳に水といった案配であった。このためこの問題はさらに紛糾したが結局さすがにそれ以上の強硬手段はとれずにこの合併案は立ち消えとなった。実際のところ、野市町や香我美町では第二次大戦前後の大忍村の合併と分離解体を経ての直前の合併で苦労をしており、そのほとぼりも冷めぬうちの新たな合併はあまりにも性急だったようだ。当初この地域は西隣の岸本町と合併案が進んでいたが庁舎位置を巡り対立、岸本町が離脱(のち香我美町に合併)した記録が残っている。
何故に高知県がこのような強攻策を打ち出したかというと、昭和の大合併が思惑ほど進まないため国からの圧力があったのではないかと思われる。終戦直後1市169町村だった高知県内の自治体を6市36町村まで減らすのが当初の予定であった。ところが1954(昭和29)年の段階で6市83町村でしか話がまとまらず、他の市町村への見せしめという意味があったのではなかろうか。最終的に昭和の大合併は9市44町村まで落ち着いたのだが、さすがに財政支援の打ち切りまではできなかっただろう。