土佐町    【廃校小学校】溜井  伊勢川  能地  南川  松が丘  地蔵寺{注1}  西部(大河内){注2}  和田  平石{注1}  瀬戸  森  相川  石原  田井  名高山{注1}                 
        【廃校中学校】石原  地蔵寺  森  田井  南川  瀬戸  西部(大河内){注2}  
        【廃校県立高校】嶺北高校森(分)
        【休校小中学校】なし  小15中7高1合計23校
         【現存小学校】土佐町
        【現存中学校】土佐町  小1中1合計2校
{注1}名高山小学校は一年おきに地蔵寺小学校と平石小学校の施設を利用、ただし校章や校歌は3校とも異なっている
{注2}西部小中学校は分町合併により本山町から土佐町へ編入改称した経緯がある、本山町時代は大河内小中学校

学校統廃合の歴史
1951(昭和26)年 和田小学校能地分校が本校より独立
1953(昭和28)年 高知農業高校森分校を閉鎖統合して本山分校を嶺北高校に 
1956(昭和31)年 溜井小学校・伊勢川小学校を松ヶ丘小学校に統合
1964(昭和39)年 能地小学校を平石小学校に統合
1970(昭和45)年 松ヶ丘小学校を森小学校に統合
            西部小中学校を田井小中学校にそれぞれ統合
1983(昭和58)年 町内の6中学校を新設の土佐町中学校に統合
1990(平成2)年  南川小学校を森小学校に統合
2000(平成12)年 和田小学校を森小学校に統合
2001(平成13)年 瀬戸小学校を石原小学校に統合
2005(平成17)年 地蔵寺小学校と平石小学校を名高山小学校に統合
2008(平成20)年 町内5小学校を新設の土佐町小学校に統合


 

 土佐町は1955(昭和30)年に地蔵寺村・田井村・森村の3村が合併して土佐村として誕生している。1961(昭和36)年には本山町の西部5部落(大渕、古味、井尻、下川、上津川)が分離して編入され、現在の状態となった。その後1970(昭和45)年に町制施行されて土佐町となった。面積は212.11㎢、そのうち山林面積が約85%を占める。合併時には1万人を越えていた人口は産業構造の変化や早明浦ダム工事完成に伴う過疎化で2009年10月時点で4,500人となっている。町内でも田井・森の中心地区への一極集中が続いており、周辺の山間部では著しい過疎化が進んでいる。
 学校の統廃合は山間部の例と早明浦ダムに沈んだ西部(大河内)小中学校を除くと中学校統合があったくらいで比較的緩やかに行われてきた。しかし近年になって耐震補強の財政的問題や少子過疎化のさらなる進行で一気に統合が進み、町内に1小1中となってしまった。当初の計画では中学校は町内におかず、本山町の嶺北高校に併設された組合立嶺北中学校に全員入学させる予定であったが、強制的な中高一貫制に反対する意見も強く土佐町中学校は存続となった。ただし、土佐町小学校の児童は卒業の時点で嶺北中学校か土佐町中学校を選択できる制度となっている。

 平成の合併では吉野川流域の大豊町・土佐町・大川村・本川村との5ヶ町村合併が当初の案であった。しかし本川村が国道194号線を通じて結びつきの強い伊野町グループとの合併を選択し、大豊町も早々に単独自立を宣言し離脱した。消防やゴミ処理などでの広域事務組合の運営と町村合併は別物という図式はここでも明確となった。現在次の合併案として高知市との広域合併が高知県から示されているが、あまりにも広域すぎてどこも消極的である。