能地小学校(土佐町) のうぢ
1964(昭和39)年に平石小学校に統合
1957(S32) | 1958(S33) | 1963(S38) | |
児童数 | 27 | 25 | 12 |
能地小学校跡は地理的には土佐町のほぼ中央に位置する能地集落にある。元々は東の尾根沿いにあった和田小学校の分校から独立したが、10数年の短い歴史を刻んで廃校となった。廃校時には元の本校である和田小学校ではなく平石小学校に統合された。
学校跡 (赤線で囲んだ部分が学校跡)
訪問は2010(平成22)年1月、平石から坂道を駆け上がって行く。能地小学校跡地の標高は実測値で610m、平石での分岐点のすぐ先平石川を渡った所にある標高点の数値が309mなので一気に300m駆け上がることになる。前述のように和田小学校の分校から始まった歴史であるが、今でも和田小学校およびその付近からの車道はない。当時は山中をほぼトラバースする山道があったのみで、現在でも車道は平石からの町道のみ、それも能地の集落で行き止まりとなっている。校区は能地集落のみ、現在の住民数は3名で当然児童生徒は皆無である。それでも1957(S32)年の記録では27名の児童在籍となっており、ピーク時には40名近い児童がいたらしい。和田小学校から独立したが独立前もその後も中学校になると地蔵寺中学校(和田小学校校区は森中学校へ)に通学していたがこれは地理的な問題がすべてらしく、実際に訪問してみると和田小学校までは行けても森中学校と地蔵寺中学校(両校とも現在は土佐町中学校に統合)の位置と通学距離・通学経路を考えるとやむを得ないと納得する。運動会になると和田本校まで出向き、独立後もそれは変わらなかったそうである。林業と炭焼きが生活の糧であったのは他の中山間地区と同様、その後の過疎の経過もまったく同様であろう。
廃校以来半世紀近い月日が流れ、学校跡地は植林となって遠目にはまったくわからない状態であった。国土地理院所有の古い地図でもわからずにかなりの難航が予想されたのだが、つてを辿って何とか卒業生の方に現地で会えることになった次第である。植林とはいえ、あまり周辺は手入れがされておらず間違いなく冬場以外には来たくないような藪であった。すぐ西側には旧能地公民館があるがこちらも朽ち果てて近寄りたくない状態で、結局学校跡地には写真左側の崖からロープを垂らして下りる有様だった。当然記念碑などもなく、藪の中を這い回っていると石段が見え、石垣も何とか残っているのがわかった。卒業生の方が思い出として話していた五葉松もかろうじて残っており、何とか学校跡の特定ができた。
校門前の石段
石垣