和田小学校(土佐町)  わだ   へき地級2(1978)
  2000(H12)年に森小学校に統合、統合先の森小学校も2008(H20)年に土佐町小学校に統合
    

  1957(S32) 1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53) 1998(H10)
児童数 63  65  49  25 


 和田小学校のあった和田地区は土佐町役場のある森地区のすぐ北西の山頂付近にある。標高はちょうど600mであり、かつては病院もあってそこそこ賑わっていたという。和田地区へのルートは森地区から県道265号大川土佐線を走り南越トンネルを抜け県道17号本川大杉線に出て上吉野川橋を渡らずに谷沿いに来るコースが基本である。その他に森地区から南浦経由と床鍋地区から遠見経由の2本の林道があるがいずれも未舗装の悪路であり乗用車での走破はあまり考えたくない。時間的には森地区からの林道が一番早いので今回はそのルートを走った。

 学校跡 

 訪問は2010(平成22)年1月、森地区からの林道は日陰に雪がかなり残っているうえに溶けた場所は凍るかぬかるみになっており思いの外時間がかかってしまった。和田小学校は14年前に訪問した事があるがそれ以来である。以前の訪問時は当時の勤務先でこの地区の担当者が場所がわからないというので一緒に同行して来たように憶えている。当時で在籍児童数は5人前後であったように思うが、その3年後には6年生1人となって閉校となっているのでおおむね間違いではあるまい。1957(S32)年の最盛期には63名の児童がいた記録が残っており、戦後6年間は能地分校もあって本分校合わせると100名近い児童がいた(その後能地分校は独立)。中学校は森中学校へ通い森中学校統合後は土佐町中学校へと自転車で通った。行きは下りばかりなので早いが帰りはほとんど押して帰らざるを得なかったらしい。もっとも車で通りかかった住民が積んで帰ることが多かったらしく、押さずに道ばたで誰かが通るのを待っていたという話も聞いた。
 地区内では他の中山間地域と同じように林業・炭焼き・楮三椏・養蚕が主で、わずかな畑できびやこんにゃくの生産をしていた。和田地区は尾瀬伝いの山道の交差する要衝で戦国時代には城も築かれていた。学校の南側のほうには平坦な場所があって明治から大正にかけては草競馬も行われていたらしい。現在校区内の児童生徒数はゼロ、学校近くに幼児が1名いるのみである。