三原村    【廃校小学校】東(分)  西(分)  南(分)  芳井(分)
        【廃校中学校】なし
        【休校小中学校】なし  小4中0合計4校
         【現存小学校】三原

学校統廃合の流れ
1977(昭和52)年 三原小学校芳井分校を南分校に統合
1980(昭和55)年 東・西・南の各分校を三原小学校本校に統合

Thaks 三原村教育委員会

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 幡多郡三原村は1889(明治22)年に来栖野村・上長谷村・下長谷村・成山村・狼内村・芳井村・柚ノ木村・広野村・亀ノ川村・下切村の10村が合併して誕生している。以来行政区分はまったく変わらないままである。四方を標高450mから850m(最高峰は今ノ山868m)ほどの山に囲まれ、東進する下ノ加江川に沿って標高120m前後の平地がある。地形的には隣接する宿毛市・土佐清水市・中村市(現四万十市)・大月町とは完全に独立しており、やや特異な地形である。
 最盛期の1955(昭和30)年には3,639人を数えた人口も2004(平成16)年4月には1,931人となっている。林業やお茶の生産が主な産業だったために過疎化が進んでいる。電子部品の加工工場などを誘致しているが、雇用増の決め手にはなっていない。書道に使う土佐硯の生産地でもあるが、雇用に直結するほどの生産量でもない。三原村から外部への交通路としては宿毛市平田へ出る県道が大きく整備された。これは途中にある中筋川ダムのおかげもあって、現在では国道56号線まで三原村役場から30分足らずである。しかしながらどんな振興策をとってもダム上流域が栄えた前例は日本になく、三原村でもこの道を通って宿毛市や中村市(現四万十市)に通勤する人が結局は引っ越す例が多いそうだ。
 学校の統合はもともと中学校1校だったために小学校の分校統合のみである。最盛期に700人を越えていた児童生徒数は150人少々に減っている。小学校は4年生までスクールバスでの通学で、それ以降は自転車通学となっている。高校に進学となると宿毛市にある宿毛高校・宿毛工業高校と中村市(現四万十市)にある中村高校・幡多農業高校が主な進学先となる。近年になって土佐くろしお鉄道宿毛線が開通し、平田駅から汽車通学が可能となった。

 平成の合併では当初の高知県試案では幡多地域広域合併案(佐賀町・大方町・西土佐村・中村市・宿毛市・三原村・大月町・土佐清水市)もしくは東西(佐賀町・大方町・西土佐村・中村市と宿毛市・三原村・大月町・土佐清水市とのグループ)2分割案が出ていた。広域合併案はさすがに協議内容が複雑になりすぎて時間的な余裕がないということで流れた。西土佐村は地理的に結びつきの強い十和村・大正町との合併協議を並行するという選択肢も残していたが、ひとまずは東西での合併協議が進んでいた。ところが東グループは庁舎位置を巡って紛糾し、佐賀町と大方町の住民投票によって合併否決となり、この2町の離脱が決まった。結果的に東グループは残った中村市と西土佐町が四万十市になり佐賀町と大方町も黒潮町として発足することになった。いっぽう西グループは土佐清水市の合併協議参加を巡って対立し、三原村が離脱した。残った宿毛市と大月町で合併協議が進められ、合併協定に調印したものの議員定数と選挙区割りで紛糾し大月町議会の否決により白紙となった。
 もともと三原村は土佐清水市との結びつきが強く、土佐清水市寄りの立場をとっていた。当初から幡多地域の広域合併を主張していたこともあり、現在は単独自立を余儀なくされている。