旧大正町  【廃校小学校】葛籠川  芳川  中津川  下道(分)  下津井  打井川
        【廃校中学校】下津井  打井川  大奈路
        【休校小中学校】大奈路小(2013〜)  北ノ川中(2021〜)         小7中4合計11校
        【現存小学校】田野々  北ノ川  
        【現存中学校】大正   
        【現存県立高校】四万十(旧大正)  小2中1高1合計4校


学校統廃合の流れ
1969(昭和44)年 下道分校を大奈路小学校へ統合
            葛籠川小学校・芳川小学校を田野々小学校へ統合
1971(昭和46)年 打井川中学校を北ノ川中学校へ統合
1990(平成 2)年 下津井中学校を大奈路中学校へ統合
1996(平成 8)年 中津川小学校を大奈路小学校へ統合
1997(平成 9)年 下津井小学校を大奈路小学校へ統合
2004(平成16)年 打井川小学校を北ノ川小学校へ統合
2005(平成17)年 大奈路中学校を大正中学校へ統合(2012年廃校)
2010(平成22)年 下津井小学校・打井川小学校が廃校手続き
2013(平成25)年 大奈路小を田野々小に統合
2021(令和3)年  北ノ川中学校休校

Thanks 大正町教育委員会・四万十町教育委員会

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 大正町は四万十川中流域にある面積199.32平方キロ人口3,500人足らずの村であった(既に四万十町として合併済み)。南部を四万十川が東西に貫き、大きな支流の檮原川が南北に流れやや細長い形になっている。四万十川に沿う形で国道381号線とJR予土線がほぼ並行しており、人口はほとんどここに集中している。このほかに国道439号線が南北に縦断しているがこちらはまだまだ二車線どころか一部では大型車の通行が困難なほど整備が遅れている。この九十九折れの残る国道439号線杓子峠もバイパス事業が決定しており、完成のあかつきには中村市街地まで30分少々で着くと予想されている。
 藩政時代より幡多郡北部は北幡と呼ばれ、上山郷・下山郷と称されていた。このうち上山郷は東西で上分と下分に分かれていた。明治以降は津大村・江川崎村・十川村・西上山村(下分)・東上山村(上分)の北幡5個村で成り立っていた。このうち東上山村は大正天皇即位の際に大正村(のち町制移行)と改称し、1947(昭和22)年に折合地区を窪川町に分村編入した以外は大きな変化はなかった。なお先の5個村のうち、津大村と江川崎村は昭和の大合併で西土佐村、十川村は昭和村と改称していた西上山村と合併して十和村となっている。平成に至っての合併協議では様々な枠組みが浮かんでは消え、難航していたが最終的に西土佐村は中村市と合併して四万十市、十和村・大正町・窪川町で四万十町となって落ち着いた。既に両自治体とも合併は無事終了している。予断だが、これで少々困ったのが高知県警窪川署と中村署である。基本的に所轄署は自治体名称を使用するという前提があるらしいのだが、そうすると両方とも四万十署になってしまう。四万十市署と四万十町署にするかという意見もあったようだが、かえって混乱するだけだろうという事で結局妙案が出ず改称せずにそのままの名称で落ち着いたもよう。
 2007年5月に四万十町教育委員会が「四万十町学校適正規模配置案」をとりまとめ、その後の経緯が注目されていたが2008年9月に統合計画が公表された。それによると旧大正町内の統廃合は現状の小3中2から小2中1に減少する。

 町内の学校教育の始まりは江戸時代の寺子屋から続いており、1875(明治8)年には20ヶ所の授業場があったと記されている。この当時は廃仏毀釈で空いた寺跡を利用したり、庄屋宅を使用していた。その後いくつかの統廃合を経て1919(大正8)年には上記の小学校枠組みができあがっている。即ち、打井川・北ノ川・芳川・田野々・葛籠川・大奈路・中津川・下道・下津井の9校である。当時は天然林の伐採で好況が続き、昭和に入ってからは津賀ダムの建設工事もあって下津井方面は人の絶えることがなかったらしい。やがて林業不況と産業構造の変化で過疎化が始まり、学校の統廃合が始まった。比較的緩やかに進んでいた統廃合もこの10年少々で一気に進み、小学校3校中学校2校になってしまった。残る学校も大奈路小学校の在籍児童は30名足らず、北ノ川中学校の在籍生徒は20名足らずとなっており予断を許さない状況である。