葛籠川小学校(大正町)  つづらかわ
  1969(S44)年廃校

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43)
在籍児童数 28  42  29 



 葛籠川小学校跡へは大正町中心部の田野々から四万十川支流の葛籠川を遡る。国道381号線と分かれて国道439号線に入り、四万十川を渡ってすぐ右折する(439号線を走るのはほんの一瞬である)。葛籠川の先には「一ノ又渓谷温泉」があり、看板も出ているのでいい目印になるだろう。川沿いに3km足らず走ると右カーブの左手に集会所と広場が見えるが、そこが葛籠川小学校跡である。この先この道は温泉を左に見ながら、大規模林道となって旧中村市へと続いている。

葛籠川小学校跡

 訪問は2007(平成19)年の2月、所用のあった旧中村市から行くことになった。当初国道439号線杓子峠越えを考えていたが、立ち寄り先で「公団林道を抜けたほうが早い」と言われルートを変更した。途中工事中のためダート区間があったものの、基本的には2車線の公団林道はあっという間に山越えをして葛籠川に着いた。
 小学校は既に西側が集会所と払い下げられた東半分側に民家が建っており、記念碑は見あたらない。集会所奥の階段は学校当時のものと教えてもらった。脇の倉庫の横に「学校林寄贈記念」という石碑があり、1955(昭和30)年の建立であった。当時の記録では実地7反6畝歩の面積に寄贈後1966(昭和36)年から翌年に渡って檜3,700本を植えつけたとある。古老の証言では「1893(明治26)か1894(明治27)年に葛籠川集落H氏宅、居家の表6畳間を借り受けて小学校の授業を始めた。生徒数15名くらいでまるで寺子屋のようであった。」とあり、これが葛籠川小学校の始まりだとされている。1912(明治45)年に高知県から当時の東上山村(大正町の前身=大正天皇即位を祝って改称するのはこの直後)村長宛に出された照会文の中に「葛籠川家庭教育ノ改善方法」をいう一文があり、実際に確固たる義務教育が行われていたとは認知されていなかったようである。その後移転したものの家庭教育場のままであったが1918(大正7)年に田野々尋常小学校の分教場として就学児童数33名で設置申請が出ている。翌1919(大正8)年の大正村通学区域という図面では葛籠川分教場の所在とその通学区域が「田野々葛籠川ヨリ一里十町」と記されており、この頃には正式に学校として認可されている。
 上記のように葛籠川小学校の校区は学校を中心に5kmとなっていた。実際には四万十川を境に今の温泉上流あたりまでが人家の存在限界だったようだ。老朽化と過疎化、加えて道路事情の改善で田野々まで通学が可能になった事で閉校となった。閉校時に児童数は20名少々いたらしく、スクールバスは満員で運行されていたそうだ。現在校区内に3歳児がいるのみ、あとは高校生が3人である。スクールバスの運行は5年ほど前に廃止されている。

階段跡