芸西村    【廃校小学校】和食  西分  馬ノ上  久重  白髪(分) 長谷寄(分)  
        【廃校中学校】なし
        【休校小中学校】なし  
        【休廃校県立高校】安芸芸西(分)  小6中0高1合計7校
        【現存小学校】芸西 
        【現存中学校】芸西  小1中1合計2校

学校統廃合の流れ
1956(昭和31)年    和食・西分・馬ノ上の各小学校を芸西小学校に統合
              和食小学校白髪分校を芸西小学校白髪分校に改称
1963(昭和38)年    長谷寄分校を芸西小学校に統合
1970(昭和45)年    安芸高校芸西分校を本校に統合
1971(昭和46)年 8月 白髪分校を芸西小学校に統合
1976(昭和51)年    久重小学校を芸西小学校に統合

参考文献 芸西村史  僕の家は山を下りた(高知県立歴史民俗資料館)
Thanks 芸西村教育委員会 高知県立歴史民俗資料館 K・K氏(白髪分校最後の在籍児童)

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 芸西村は1954(昭和29)年に和食村・西分村・馬ノ上村が合併して誕生した。その後翌1955年に東川村の14字のうち3字(久重山・道家・国光)を編入して現在の状態となった。当初の予定では東隣の赤野村も合流するはずであったが、直前に安芸市への合流を表明し離脱した。東側の境界線がくびれているのはそのためでもある。現在芸西村の人口は現在ほとんどが和食周辺の平野部に集中しており、久重や国光にはわずかな人が住むのみである。
 芸西村には通称「芸西神楽」と呼ばれる神楽が残っている、いや残っていたというほうが正しいだろう。道家にある大野家に「神道家伝神楽次第」が代々伝承されており、これは紀州熊野神楽をこの地に伝えたものである。大野家の言い伝えでは紀州から不動ヶ浜(安田町)に漂着した先祖が相名(馬路村)に落ち着き、さらにその兄弟が道家に住み着いて神楽を受け継いできたそうである。残念ながら芸西神楽が道家にある氏神仁井田神社にて最後の舞を演じたのは1967(昭和42)年の晩秋で、以降絶えて久しい。その後継承者もいないままである。従って文献では多少の記録が残っているものの、現在芸西神楽自体の奉納を行える舞子はいない。以来何度か再興の話は出るが実現には至っていない。
 学校の統廃合は小学校5校となっているが、このうち芸西村誕生直後の統廃合は過疎化ではなく校舎の老朽化と合併による効率化が理由である。残る2校は過疎化、しかも白髪分校は集落自体の移転消滅という道を辿っている。かつて赤野川周辺に白髪・宇留志・板渕の集落があった。ともに800年の歴史を持ち木地師の流れを汲む集落であったが、過疎化の進行で集落機能の維持が著しく困難になり1973(昭和48)年に集団移転を行い、現在居住者はいない。白髪は村役場から北東に約13kmの赤野川と穴内川に挟まれた標高400mの山頂台地にあった。移転した集落の中ではもっとも戸数が多く、芸西小学校白髪分校が設置されていた。集落までは安芸市八流から10kmほどの狭い林道が通じているのみであった。宇留志は村役場から北東15km赤野川上流の標高250m前後の山中にあり、赤野川沿いに狭い林道が通じているのみであった。板淵は宇留志からさらに林道を4km遡った赤野川の段丘にあった。ほかにも大屋敷という集落が消滅している。白髪以外の集落は九重小学校に山越えをして通学していた。

 平成の合併協議では当初2つの合併協議に参加していた。野市町・香我美町・吉川村・赤岡町・夜須との香南グループ(のち芸西村を除く5町村合併で香南市に)、東洋町・馬路村・北川村・奈半利町・田野町・安田町・安芸市との県東部広域グループであった。このうち東部広域グループからは早々に離脱を表明した。香南グループも元々芸西村としては夜須町・香我美町との3町村合併が目的だった感が強く、こちらからも離脱となった。住民アンケートでも合併反対が多数で現在のところ財政的に深刻な危機とはなっておらず、当面は単独自立を貫くだろう。