芸西小学校白髪分校(芸西村)  しれげ
  和食小学校白髪分校から合併により芸西小学校白髪分校に改称後、集落移転により1971(S46)年本校統合

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1970(S45)
児童数 26  22 



白髪地区へは現在でも芸西村からの直接ルートがないため、いったん安芸市八流から大夫屋地へと向かう。大夫屋地のすぐ先で林道に入りやがて舗装も切れ、悪路になるがそのまま尾根沿いの断崖上を進む。安芸市立赤野小学校公有林である赤野「21悠久の森」整備事業の看板があるが、このあたりでようやく芸西村の境界となる。看板を見ながら右折し数百m先の分岐は左手に進む、八流から約8kmで白髪集落の南端に着く。学校跡は車道左手の標高390m地点にある高台(とはいえ既に竹林となっており往事の面影はない)にある。   
 
  
在りし日の白髪分校 「田辺寿男氏撮影・高知県立歴史民俗資料館提供」

 訪問は2009(平成21)7月、実際には今回で5回目の訪問となる。白髪集落は1971(S46)年に集団移転のために全員が退去しており、その際に家屋はすべて撤去(倉庫などは放置されている場合あり)のためもはや集落の配置状態自体がまったくわからない状態であった。国立国会図書館蔵書にあった国土地理院発行1:25000手結[1967(S42)]地形図でかろうじて学校所在地は大まかにわかったものの、実際に現地に出向いてみると細い竹藪だらけで地形すらさっぱりわからない状態であった。最終兵器として購入したハンディGPSは竹藪に邪魔されて衛星捕捉不可能のため計測できずといった有様で、だいたいの検討はつけたものの確固たる自信がなく訪問と撤退を繰り返すままであった。
 幸いなことに集団離村の様子を克明に撮影した「僕の村は山を下りた」という写真集が田辺寿男氏撮影・高知県立歴史民俗資料館刊行で残されており、土佐民俗学会の会員を通じて田辺氏にコンタクトしたのだが体調がおもわしくないそうで現地案内は不可という返事があった(田辺氏は訪問翌年の2010年に逝去)。それでも諦めずに写真集の中の分校写真をこのサイトに掲載したいので高知県立歴史民俗資料館に伺った際に最後の卒業生であるK氏に連絡をとってもらえることとなり、無理を言って現地に案内していただいた。今でも年に一度は集落出身者が道普請を行い、集落内の草刈や集落までの林道を手直ししているそうである。本当はその機会に案内してもらうつもりだったが、道普請の際は一日忙しいので案内は無理だということでわざわざ時間をとって案内していただいた。K氏には無理を言って時間を割いてもらい、本当に感謝している。

 K氏によると中学校になると和喰にある芸西中学校まで通学していたが、自転車のため行きはよいが帰りはかなりつらかったと先輩方から聞かされたそうである(K氏自身は小学校卒業と同時に移転したのでその経験はない)。運良く集落の誰かが車で通れば乗せてもらえることもあったが、普段はひたすら押して上がっていたらしい。K氏が案内してくれた学校跡は当方の予想通りの入口であったが思ったより奥まっており、たどり着けなかったのも当然である。校庭には整地用のローラーが転がっており、学校跡とわかる痕跡はこれだけであった。校舎は東半分が完全に崩壊しているが西半分はかろうじて残っていた。もっとも閉校後は最後の移転作業に残った家の宿舎として使われていたそうで、黒板や机などもすべて取り外されている。校舎裏には教員官舎が半分崩壊した状態で残っている。


 雑草に埋もれたローラー

 

白髪集落は約800年の歴史があったようで芸西村史等によると元々は木地師が定住したのではないかと言われている。K氏に伺ったがK氏の時代にはもう木地仕事はしておらず、炭焼きや木出しをぼつぼつ行う程度の実質的には限りなく自給自足に近い生活だったそうだ。終戦後から高度成長期にかけて安芸市や野市町などに引っ越す人が増え始め、過疎化が進んだ。芸西村史によると「白髪・宇留志・板淵の集落からの転出が激しく、57戸のうち33戸が自力で移住した。残った24戸は自力移住もむつかしく、しかも若い世代は県外等に職を求めて転出。1968(S43)年秋に白髪地区運動会が開催され、この折の懇親会で村長に集団移転の意志を伝えた。」とある。この陳情を機会に急速に移転計画が進められ、3年後に3集落の完全移転となった。離村廃集落にしてはそこまでの林道がそれほど荒れ果てていないのは前述のように年に一度は道普請が行われているからであろう(荒れ果てていないというのは廃道状態ではないという意味で、未舗装林道としてはごく一般的な荒れ具合です)。





 教員官舎跡