旧野市町   【廃校小学校】香宗  富家
        【廃校中学校】なし
        【休校小中学校】なし  小2中0合計2校
        【現存小学校】野市  野市東  佐古
        【現存中学校】野市  小3中1合計4校

学校統廃合の流れ
1958(昭和33)年 香宗小学校と富家小学校を統合し野市東小学校を新設

参考文献 野市町史
Thanks 野市町教育委員会

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 現在の野市町は1955(昭和30)年1月にいわゆる昭和の大合併で発足したもので、旧野市町・佐古村・香宗村・富家村の4町村が合併している。その後同年9月に逆川・戸板島(旧佐古村)が土佐山田町に分離編入された。遡ると戦時中の1942(昭和17)年に決戦体制の確立を目指すために改正された町村法のもと、香宗村・富家村・山南村・徳王子村(現香我美町)が合併し、大忍村となっている。高知県と大政翼賛会高知支部の主導で行われたこの合併は戦時中の米の供出を巡って紛糾し、わずか6年後の1948(昭和23)年に大忍村は分離解体された。
 現野市町は農業を中心としていたものの、平野部が多いことや国道・土佐電鉄安芸線(1972年に廃線=現在の土佐くろしお鉄道に引き継がれる)などもあったことから人口は合併時の9,600人から微減状態であった。1970年代になって東部に「みどり野団地」が造成され、その後「みどり野東団地」という大型分譲地ができ高知市のベッドタウンとして一気に人口が増えた。最近は北東部の佐古地区で住宅開発が進められており、町の人口は2005(平成17)年10月時点で17,759人と合併時よりほぼ倍増している。 このため学校の統廃合も過疎化によるものではなく、記録に残る香宗・富家小学校の統合は生徒数増加のため手狭になった環境改善によるものであった。
 町内には県立青少年センター・県立のいち動物公園・龍馬歴史館などがあり、高知空港より10分という至便性も手伝って観光客も多い。このほか龍河洞に抜ける県道(旧龍河洞スカイライン)もあり、眺望の良さを誇っている。
 半世紀を経て再び合併案が浮上し、5町村(野市町・赤岡町・夜須町・香我美町・吉川村)が対等合併することになり2006(平成18)年3月1日に「香南市」発足となった。

香南の大合併
 元々この地域では昭和の大合併において高知県主導で夜須町・香我美町・野市町・赤岡町・吉川村の5ヶ町村を香南市としてまとめるという計画が持ち上がった。香南の大合併と呼ばれ、まさに鳴り物入りで進められた。高知県はこの合併案に対し「1:高知県知事は内閣総理大臣と協議して合併勧告を行う 2:知事の勧告後90日以内に合併議決をしない場合、知事は内閣総理大臣からの勧告を求める 3:それでも合併しない場合、国・県の財政支援を打ち切る」という強硬策を押し立ててきた。よく読めばこの策はもうメチャクチャである、そこには住民の意思というものは存在しない。
 しかしいきなりこういう事を言われてはいそうですかと従うのは無理で、1957(昭和32)年にまず1を発動。急遽合併協議会が立ち上げられたが、本庁舎を野市町に決定するのが精一杯。焦った(と記録にある)高知県は1958(昭和33)年9月に2を発動、夜須町・香我美町・赤岡町・吉川村は合併やむなしで態度を決めた。ところが野市町が町議会においてこの合併案を敢然と拒否、当時の記録では明け方まで議会が紛糾したが結局単独自立を採択したとある。野市町はこの時点で3の発動を覚悟していたようだが、他の町村にとってはまさに寝耳に水といった案配であった。このためこの問題はさらに紛糾したが結局さすがにそれ以上の強硬手段はとれずにこの合併案は立ち消えとなった。実際のところ、各町村とも直前の合併で苦労をしており、そのほとぼりも冷めぬうちの新たな合併はあまりにも性急だったようだ。特に野市町東部では大忍村の一件もあって、広域合併には絶対反対の空気が強かったそうである。
 何故に高知県がこのような強攻策を打ち出したかというと、昭和の大合併が思惑ほど進まないため国からの圧力があったのではないかと思われる。終戦直後1市169町村だった高知県内の自治体を6市36町村まで減らすのが当初の予定であった。ところが1954(昭和29)年の段階で6市83町村でしか話がまとまらず、他の市町村への見せしめという意味があったのではなかろうか。最終的に昭和の大合併は9市44町村まで落ち着いたのだが、さすがに財政支援の打ち切りまではできなかっただろう。
 そして当初の計画より半世紀を経て2006(平成18)年3月にこの5ヶ町村での合併が決定となった。香南市の誕生である。実際はここに至るまでもいろいろと紆余曲折はあったのだが、最早それも過ぎ去った話である。