芳生野小学校(東津野村) よしうの
東津野村立芳生野小学校として設立後、中央小学校へ統合
1958(S33) | 1963(S38) | 1968(S43) | |
在籍児童数 | 56 | 55 | 41 |
東津野村中心部から国道439号線を北上し、3キロほど進んだ左手に芳生野小学校跡がある。写真でわかるように民家の間を入っていく形になり、国道から数十mも離れていない割にはわかりづらい。
芳生野小学校跡
訪問したのは2005(平成17)年3月、現在は縫製工場に改築されているので写真撮影の許可をいただく。明治以来の歴史を経て、1948(昭和23)年に単独校として独立した。1972(昭和47)年に中央小学校に統合され、その後払い下げられて改築し縫製工場になっている。
当初から複式学級の小さな学校で最盛期に50人足らずだったそうだ。向かって左側が職員室、その横に玄関があり、教室が3つ続いてたそうだ。その配置自体は現在も偲ぶことができる。校庭には校歌を刻んだ卒業記念碑が残っている。建立時期を書いたパネルが剥げ落ちているので正確な建立時期がわからないが、近所の老人によると廃校の数年前と言うので恐らく1968(昭和43)年頃ではないだろうか。
天誅組として奈良で非業の死を遂げた幕末の志士吉村虎太郎はこの地区の出身である。生家は今でも残っていて、銅像もある。吉村らは長州藩の企てた天皇の大和行幸に先だって倒幕挙兵を行い、大和五条の代官所を襲撃し一帯を占領した。ところが京都で起きた八・一・八政変により長州藩が京都を追われ、天皇行幸はならず、あまつさえ朝敵のレッテルを貼られ孤立無援のまま幕府軍と闘い彼の地に果てた。
「吉野山 風にみだるるもみじ葉はわが打つ太刀の 血けむりと見よ」
有名な辞世の句である。吉野の山に紅葉が舞うときは未だ自分の分身として闘っていると見てくれという主旨である。若くして庄屋の跡継ぎとなり、天才として近隣では知られた存在だったという。