白髪小中学校(本山町)  しらが
  1971(昭和46)年に本山小中学校にそれぞれ統合
   

  1953(S28) 1958(S33) 1963(S38) 1965(S40) 1968(S43)
児童数  41  35 28   21 13 
生徒数  17  20 18   10


 

 本山町は中心部を東西に吉野川が貫くように流れ、その本流に向かって南北からいくつかの支流が流れ込み集落はその支流沿いにあることがほとんどである。白髪小中学校もその支流行川を遡った標高440mの場所にあった小さな学校である。1979(S54)年発行の本山町史によると、1953(S28)年度に児童41名生徒17名合計58名が在籍、1965(S40)年度に児童数21名生徒10名合計31名が在籍となっている。同じく1972(S47)年発行の高知営林局百年史によると1919(T8)年に白髪(本山署)等5ヶ所に家庭教育場が設置されたとある。この家庭教育場は教育経験のある職員を雇用した営林局私設小学校で、へき地義務教育の一環および国有林野事業の労務対策の一助を担った制度であった。1919(T8)年の児童在籍数が39名、父兄の職業は木挽3名木馬3名雑役11名地方民22名となっている。後述するように白髪には営林局事業所が設置され、相応の賑わいがあったのは間違いないだろう。かつて白髪山の檜は魚梁瀬杉(馬路村)と並んで良質の材木として名高く、朝廷に献上した記録や上方(大阪)の材木問屋付近には白髪町という町名もあった。


 林道から見た小学校校舎跡

 最初の訪問は2010(H22)年12月、白髪山行川登山口の案内板に従って木能津で国道439号線から県道262号磯谷本山線へと橋を渡る。ここから先の案内板を頼りに7km進むと左上に学校跡が見えてくるがそこが白髪小中学校跡である。学校手前4kmほどから全く人家がなくなり(別荘が2軒)実に不安であるが、まず迷うことはないだろう。
テニスコートほどのせまい校庭を挟んで南側に中学校、北側に小学校の校舎が残っている。

 小学校校舎跡

 中学校校舎跡

 中学校校舎周辺は草刈もされており、内部には鰻用の仕掛けや釣り竿が置いてあり何らかの形で使われている様子であった。教室のプレートは残っており、それによると手前側が1〜3年の教室(複式)で奥が技術家庭室となっている。職員室は小学校校舎にあったのであろう。

 まだ残る教室プレート

 二度目の訪問は2014年(H26)年1月、校区をもう少し調べようと訪れた。校区は蛇野(はめがの)・新頃(しんごろ)・奥平野・梅野(ばいのう)の4集落。蛇野に現在2世帯3人が住むだけで他は無人となっている。本山町史によると、1953(S28)年度に児童41名生徒17名合計58名が在籍、1965(S40)年度に児童数21名生徒10名合計31名が在籍となっている。当然のことながら現在児童生徒は皆無である。従ってかつての校区状況は蛇野の住民・元住民(畑の手入れに帰ってきていた)に聞き取りした上で、本山町役場で確認することとなったがあまりにも古い話なので役場では詳細不明との回答であった。

 現在唯一の有人集落となる蛇野は上下に分かれる形になっていたらしく、学校脇に1軒と学校跡から裏の林道を上った標高530m付近の上部に5軒の合計6軒だったが、現在は上部に3人が住んでいるのみ。もっともここは転出した元住民のうち本山町中心部などに住む人が時々手入れに帰ってくるそうである。新頃は学校跡から橋を渡って対岸を右手に少し進んだあたり、営林署事業所が設置されており白髪校区でも一番賑わっていた集落で人家だけで8軒あったという。橋を渡った左手の先には奥白髪温泉があったが現在は営業休止中。奥平野は学校跡から300mほど下った場所から西側に上っていく、標高は560mほどだったらしい。近くに平家の滝があり林道が通じているのだがあいにく積雪のため途中で断念した。梅野はさらに3kmほど下った場所から山道があり、立川上名へ抜ける八丁越え途中の標高550m付近に3軒の人家があったらしい。

 いずれの集落も林業を糧にその現金収入で米などの主食を購入していたが、林業がダメになって生活が成り立たなくなってどんどん人が山を下りていったそうである。蛇野だけは当時水田があったので残って住むこともできたそうである。梅野住民の話では1965(S40)年頃から一家離村が相次いで急激に過疎化が進み、学校廃校数年で梅野以外は無人となったらしい。

注:梅野については読み方が複数(ばいの・うめの・うめんのう)あるがとりあえず蛇野住民の呼び方を優先した。