大田口小学校奥大田分校(大豊町)  おくおおた   へき地級3(1978)
  旧西豊永村立大田口小学校奥大田分校として設立、合併で大豊町立に改称後、1982(S57)年に本校統合
 

  1958(S33) 1963(S38) 1968(S43) 1978(S53)
児童数   21 21  17 



 大田口の国道32号線旧道を北へ入り、黒滝山の看板を目印に進む。はるか谷底を見ながら、林道を8kmほど走ると奥大田の集落に着く。途中の林道は近年になってかろうじて舗装されているものの、ガードレールはほとんどなく落ちたら即死間違いなしの高度である。奥大田分教場としての設立は1887(明治20)年頃、その後尋常小学校制度が6年制となった時にこの分教場での授業は4年生までとなった。この頃は寺内尋常小学校が本校であったが、1936(昭和11)年に大田口小学校に統合されたため、5・6年生はそのまま大田口小学校へ通学していた。これは戦後の学制改革後も変わらなかったそうである。1977(昭和52)年に1年間施設休校後、更に1982(昭和57)年から休校となり、1993(平成5)年に統合。手元の1978(昭和53)年版教職員名簿では生徒数1学年1となっているので、この生徒が5年生となってそのまま本校統合になったようだ。



 訪問は2004(平成16)年3月。手前で作業をしていたお婆さんに話を聞くと、1937(昭和12)年の卒業生で、その頃は一学年最低で10人以上はいたので全校で40人(分教場は4年生まで)は必ずいたと言う。「このまわりじゃち、家が8軒あって50人以上はおったに今じゃ2軒にあたしと2人だけよ、みんなおらんなった」との事。ご多分にもれず、楮・三椏・炭焼き・林業で生計を立てていたのにすべてダメ。特に昭和30年ごろからは潮が引くように人がいなくなったのはここも同じだとか。現在奥大田分校跡は地区集会所として利用されているが「人がおらんき集会にもならん、直接家に行ったほうが早い」、たしかにその通りである。かつては正面玄関を挟むように杉の木が2本植えられていたそうである。室内にはまだ表彰状も残っていた。
 分校校区は終戦直後から1960年代初めにかけて50戸250人近い住民がいたもよう。2007(平成19)年1月現在では12戸18人にまで激減しており、中でも明嘉地区は7戸あった住民全てが離村している。離村時に田畑に植えられ杉はそのまま放置され、廃屋を覆い潰している。他に戦後開拓事業として小法師という集落があり、児童が通学していたが、ここも離村している。週に一回来ていた移動スーパーですら10年ほど前に撤退してしまい、日常の買い物すらままならぬ状態である。車を持たぬ家が数戸あり、日常の買い物に大田口まで往復5時間かけて通う有様である。訪問した時も一人請われて林道途中から乗せていく事になった。当然児童生徒がいるどころか一番の若手ですら60歳を越えている。

校庭跡から